霊界でも「そうですね……」

Xで、tagameさんの投稿を読んだ。

なんだか高須幹弥先生の、堀大輔が可哀想ってのが、なんとなく分かってきた。

11月から本格的にタレント活動するって嬉しそうにしてるけど、何ができるん?

若い頃の動画見たら、
「サラリーマン時代に短眠だと言ったら、会社で僕専用の産業医がついたんですよ」
って話てた。

まあ、誰も信じないよね。
会社員が鬱や不眠を相談したら、専属産業医がつくことなんてあり得ない。

でも、あり得ない嘘を言っちゃう。

そのまま40代になって、今は
「大手事務所所属のタレントになった。僕専属の担当者が10人ついた」
って言ってしまう。

そんなわけないやん。
専属スタッフ10人って、
どこのトップアイドルグループだよ。

…可哀想な人だよな。

嘘つきの父を見て育ったから分かる。
本当に嘘つきは、死ぬまでなおらない。

小さな嘘じゃなく、
嘘だとすぐ分かる大げさな話をしてしまう。

年収500万を1千万と嘘ついてしまうのではなく、
年収200万だったら年収二億ぐらいに盛っちゃうのよ。

聞いたほうが信じないで苦笑いしながら
「それはすごいですねえ」
とか合わせてくれると、
だませた!ってそのまま突き進んじゃう。

たまに、知らない人は本当に騙せるからね。

「僕専用の産業医」か。

可哀想な人や。— tagame@沼の底から (@tagame) October 25, 2026

堀大輔氏の過去の発言に触れながら、高須幹弥先生が彼を「可哀想」と評していた意味が、なんとなく分かってきた、という内容だった。投稿によれば、堀氏はかつて「会社で僕専用の産業医がついた」と話していたことがあり、いまは芸能事務所に所属して、専属の担当者が10人ついたとも話しているらしい。

それぞれの発言がどういう事情から出たものなのか、私には確かめようがないし、ここで真偽を判定したいわけでもない。ただ、投稿を読みながら頭に浮かんだのは、堀氏のことというより、前から少し引っかかっていた別の問いだった。嘘をつかれた人の中では、いったい何が起こっているのだろう。

殴られれば、顔が腫れたり血が出たり、骨が折れたりする。もちろん目に見えない傷もあるけれど、少なくとも身体の損傷は、他人にもわりと伝わりやすい。嘘の場合はそうはいかない。信じていた相手に裏切られ、期待していたものは手に入らず、信じて費やした時間やお金が消える。お金なら金額で言えても、失った時間や期待や信頼は、なかなか数字にならない。そのうえ、ようやく誰かに打ち明けると「どうしてそんな話を信じたの?」と返されたりする。嘘で傷ついたはずなのに、今度は信じた自分の判断が裁かれるのだから、ずいぶん理不尽な話だ。

ただ、負担を負うのは、嘘を信じてしまった人だけではない。嘘かもしれない話を聞かされ、それを確かめ、訂正しようとする人もまた、別のかたちで重荷を背負わされている。なにしろ、それが嘘だったと示そうとすると、とんでもなく手間がかかる。「私は年収2億円です」と言うのは一瞬で済むが、それが事実でないことを第三者が証明するには、資料を集め、事実関係を調べ、矛盾を一つずつ指摘しなければならない。やっと食い違いが見つかっても、「勘違いだったのでは」「わざとだと言い切れるのか」という問題がまだ残っている。根拠もなく人を嘘つき呼ばわりしていいはずはないし、その慎重さは必要なものだ。けれども、言うのにかかる手間と、確かめるのにかかる手間が、まるで釣り合っていないのも事実である。

一つを調べているうちに、次の話が出てくる。それにまた付き合っていれば、確かめる側はいずれ疲れ果てて「もういいや」と思い、声を上げるのをやめる。そうなると、外からは何も起こっていないように見えてしまう。反論がなくなったからといって、その話が正しかったとは限らない。反論していた人が、ただ疲れただけかもしれないのだ。


実はこれ、私にも覚えのある話である。自治体職員として働いていると、市の事業に不満を持った人から電話で怒鳴られることがある。

「市役所職員は税金泥棒だ!」
「俺たちの税金で飯を食いやがって!」

職員は仕事の対価として給与を受け取っているのであって、その財源が税金だからといって泥棒になるわけではない。理屈としてはそう説明できる。ところが、それを口にした途端に「言い訳ばかりしやがって!」「その言い方は俺を馬鹿にしてるのか!」と、かえって火に薪をくべる結果になることがある。だから私は、それ以上燃料を足さないように、「そうお思いなんですね……」「そうですね……」と応じる。相手の言い分を認めたわけではない。正しいことを伝えるために、さらに大きな負担を背負い込むのを避けているだけだ。

考えてみると、ここには嘘の検証と同じ構造がある。何かを知っているということは、その人がそれまでに時間をかけて学び、分からないことを調べ、ときには恥をかいたり痛い目にあったりしてきた、ということでもある。そうやって手に入れた知識を人に渡すのには、また別の労力が要る。少し話せばすぐ分かってくれる相手なら楽しいし、予備知識がほとんどなくても、真剣に聞いて素直に吸収してくれる人に教えるのは、むしろ喜びですらある。困るのは、知らないことそのものではない。説明するだけでも骨が折れるのに、「偉そうにするな」「馬鹿にしてるのか」と返されるときである。知識を得る苦労も、教える苦労も自分持ちで、そのうえ相手の自尊心にまで気を配らなければならないとなると、そこまでして教える理由は、正直なかなか見つからない。

ここで、tagameさんの投稿のこの一節を思い出した。

聞いたほうが信じないで苦笑いしながら「それはすごいですねえ」とか合わせてくれると、だませた!ってそのまま突き進んじゃう。

「僕専用の産業医がついたんですよ」と聞かされたら、産業医という制度を知っている人ほど、まず首をかしげるだろう。産業医は事業場で働く人の健康管理などを担う医師で、特定の社員が個別に面談や対応を受けることはあり得るにしても、それはその社員が優秀だとか、特別な地位にあることの証明にはならない。けれど、それを説明しようとすれば制度の話から始めなければならないし、相手によっては、説明するほど反論してくるかもしれない。そう思うと面倒になって、「へえ、それはすごいですねえ」と返してしまう。話した側は、自分の特別さが伝わったと受け取る。聞いた側は、伝えることを諦めている。同じ一言を挟んで、話し手の中には成功体験が、聞き手の中には諦めが、それぞれ静かに積み上がっていく。


そんなことを考えていたら、なぜかスウェーデンボルグの霊界を思い出した。

スウェーデンボルグは18世紀の思想家で、霊界を見聞きしたと称して、その様子を細かく書き残した人である。霊界が実在するかどうかを論じたいわけではない。私が面白いと思うのは、彼が描いた世界の仕組みのほうだ。『天界と地獄』によれば、人は死後、地位や学識ではなく、自分が何を愛し何を望むかという内面の性向に合った共同体へと向かっていく。合わない共同体に入り込むと、頭で理解できるかどうかとは関係なく、そこにいること自体が息苦しくなり、やがて似た者同士のところへ落ち着くのだという。

この仕組みを少しだけ借りて、もし「知的な成熟度」で霊たちが集まる世界があったらどうなるか、と考えてみた。すると、一つ妙なことに気がついた。レベル100の共同体にレベル90の霊が入ったら、たぶん居心地が悪いだろう。周りとの差が分かるから、恥ずかしくなったり、追いつこうと頑張ったりするはずだ。ところが、レベル10の霊が入ったらどうか。差がありすぎて、周りが何を面白がり、何を問題にしているのかさえ分からないかもしれない。だとすると、恥ずかしくもならない。自分が場違いだと気づくためにも、実はそれなりの理解力が要るのである。 犬や猫が服を着ずに昼寝していても恥ずかしがらないのは、人間の基準で自分を測っていないからだろう。もちろん人間を犬猫と同列に置きたいわけではなく、ある物差しが見えていなければ、その物差しで測られる恥も生まれにくい、というだけの話だ。

専門家の議論に威勢よく割って入る人を見ていても、これに近いことを感じる。科学的な反論をするには、相手の主張の根拠や研究の方法を理解していなければならないが、そこが分かっていなければ、自分の発言が反論になっていないことにも気づけない。逆に、自分が議論のどのあたりにいるのかを把握できている人は、あえて黙って聞く側に回る、という選択ができる。学ぶというのは、たぶんそういうところから始まるのだと思う。

そこで、架空の霊界に、誇張された自慢話を繰り返す新入りを一人放り込んでみた。念のため断っておくと、これは私がこしらえた人物である。

【霊界・ある共同体】

霊A「新入りの方、会社で専用の産業医がついていたそうですよ」
霊B「それは、何かの証明になるんですか?」
新入り「いや、僕は特別な存在だったんですよ!」
霊C「どうしてそれが自慢になるのか、ちょっと分からないんですが……」
新入り「皆さん、レベルが低くて僕のすごさが理解できないんですね。もっと上に行きます」

【レベル100の共同体】

霊①「おや、新入りさんですね」
霊②(小声で)「……今日はやさしい言葉でいきましょうか」
新入り「僕、会社では専用の産業医がついてたんですよ!」
霊②「……それはすごいですね」
新入り「芸能事務所では、担当者が10人なんです!」
霊③「……そうなんですねえ」
新入り「やっぱり皆さんは分かってくれるんですね! さすがレベル100の世界だ! また来ます!」
霊①「ええ、まあ……」

(新入りが去ったあと)

霊①「……何、今の?」
霊②「最悪~w」
霊③「とんだ災難でしたな」
霊①「さて、どこまで話しましたっけ」

この光景を想像して、少し笑ってしまった。新入りにしてみれば、下の共同体では話にいちいち疑問をはさまれたのに、レベル100の霊たちとは対等に会話できた。念願の成功体験である。ところが霊たちにとっては、相手に合わせて言葉の水準をひとまず下げ、その場をやり過ごしただけの出来事にすぎない。霊たちの頭が悪くなったわけではない。高度な話をしても通じないし、面倒なことになると分かっているから、一時的にレベル10の話し方に切り替えただけだ。同じ会話なのに、片方にとっては承認の記憶で、もう片方にとっては災難の記憶になっている。 しかも本音は本人が去ったあとでしか交わされないから、新入りは自分がどう見られていたのかを知る機会すらない。

笑ったあとで、少し気まずくなった。霊②や霊③の相づちは、私が電話口で言っている台詞とまったく同じなのである。受話器を置いたあと、隣の席の同僚と目を見合わせたことがないとは、とても言えない。どうやら私も、ときどき霊②や霊③と同じことをしているらしい。

もちろん、これはスウェーデンボルグの教説そのものではなく、その仕組みを借りた私の空想である。本来の彼の霊界で問われるのは知識の高低ではなく内面の性向で、その不一致は、本人が理解できるかどうかにかかわらず苦痛になるとされている。向こうでは、場違いな者は場違いであることを身をもって思い知らされ、自分に合う場所へ戻っていく。

ところが、現実の世界、とくにインターネットでは、どうも逆のことが起きているように思える。レベル100の議論の場に誰かが現れ、大げさな主張をしたり、専門家に威勢よく食ってかかったりする。すると、その姿を面白がったり、胸がすくと感じたりする観衆が、どこからともなく大量に集まってくる。やがて、レベル100の世界の真ん中に、その人と観衆だけで完結した、一種の結界のような空間ができあがる。結界の内側は、本人にとってすこぶる居心地がいい。拍手はたくさん聞こえるし、反論はほとんど届かない。そのうち、もともとそこで議論していた人たちのほうが、面倒になって少しずつ離れていく。

以前、大人たちが真剣にバドミントンの練習をしている場に子どもが一人加わると、大人の腕が落ちるわけではないのに、練習の中身がいつの間にか子ども向けに変わってしまう、という話を考えたことがある。子どもへの配慮と、根拠の乏しい主張への拍手は、もちろん倫理的には別物だ。それでも、一部の参加者に合わせて周りの振る舞いが変わり、誰もルールを変えていないのに場の性質そのものが変わってしまう、という構造はよく似ている。SNSでは、それが拡散と観衆の流入によって、桁違いの規模で起こる。しかも、専門家に挑みかかって論破したように見えるだけで、注目やお金が集まることがある。以前「社会の報酬表」で考えたように、人は何が報われるかを見て行動を覚えるから、こうなると、長い年月をかけて専門性を磨くより、専門家とぶつかって目立つほうが割に合う、という学習が起きても不思議ではない。

スウェーデンボルグの霊界では、人は自分に合う場所へ向かう。けれど現実の情報空間では、自分に合う人々を呼び寄せて、いま立っている場所のほうを自分に合わせて作り変えてしまうことがある。結界の中の人は、レベル100の世界にたどり着いたと思っているかもしれない。しかし実際には、レベル100の世界に入ったのではなく、その一角を、自分が居心地よくいられる場所に変えてしまっただけなのかもしれない。そして、その模様替えの費用を払っているのは、説明を諦め、時間を削られ、黙ってその場を去っていった人たちなのである。


さて、tagameさんの投稿の最後に戻ろう。

「僕専用の産業医」か。
可哀想な人や。

私はこの「可哀想」を、文字どおりの同情とは少し違う意味で受け取った。もっと冷えた、侮蔑とも諦めともつかないものが、そこに込められているように感じたのだ。

人が誰かに怒るとき、そこにはまだ期待がある。「間違ってるでしょう」とぶつけるのは、言えば分かるはずだ、同じ前提の上で話し合えるはずだ、と思っているからだろう。けれども、何を言っても伝わらず、矛盾を指摘してもまた新しい説明が出てくる、ということを繰り返していると、やがて怒ることさえ馬鹿らしくなってくる。相手は罵倒する相手でも、議論する相手でもなくなり、残るのは「可哀想な人だ」という感覚だけになる。それは許したということではない。対等に話の通じる相手として向き合うことを、諦めたということなのだと思う。

tagameさんは投稿の中で、嘘をつく父親を見て育ったと書いている。その経験がこの短い一言にどんな重みを与えているのか、本当のところは私には分からない。ただ、長い時間をかけて何かを諦めた人の言葉として読むと、その「可哀想」は、どんな悪口よりも重く響く。

そして私は、その言葉の向こう側にいる人たちのことを考えた。嘘を信じて時間やお金を失った人。話を確かめようとして疲れ果てた人。正しいことを伝えようとして、かえって攻撃された人。電話口で「そうですね……」と言って、受話器を置いた人。結界の外へ、黙って離れていった専門家。話している本人には拍手が集まっても、こうした人たちが失ったものは、ほとんど誰の目にも映らない。

「そうですね」も「すごいですね」も、同意や称賛だとは限らない。もう教えることも訂正することも諦めた人の、最後の相づちなのかもしれない。それに気づかないまま、話している本人だけがますます自信を深めていく。そう考えると、何だか少し、むなしくなる。

誰からも否定されなくなったことは、誰からも認められるようになったこととは限らない。 もう誰も、その人に本当のことを教えてくれなくなっただけかもしれない。あるいは、その人が正しくなったのではなく、正しく見えるように、周りの景色のほうが作り変えられてしまったのかもしれない。

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