X(旧Twitter)で、男性社員が半年間の育休に入るときの話を読んだ。
彼が職場の皆の前で挨拶をしようとしたまさにその時、部長が割って入り、こう言ったそうだ。 「こいつは明日から半年間異動する。24時間365日、いつ呼び出されるかわからない激務で、顧客は言葉も通じない。しかも自ら志願した。頑張れよ、応援してるぞ」
会議室は一瞬きょとんとしたあと、笑いに包まれたという。 投稿者はこの出来事を「応援という報酬」と表現し、「数字には残らない。規則にも明文化されていない。でも、ここでは育休も挑戦として扱われる。そういう小さなやり取りが信頼される職場をつくる」という美しい結論で結んでいた。
でも、最初に読んだときから、どうしても拭えない違和感があった。
言葉の字面だけを見れば、とても綺麗だ。「応援」「挑戦」「信頼」、そして「数字には残らない」。どれも、なんとなく良さそうな響きを持っている。けれど、一つ一つの意味を立ち止まって考えてみると、どんどん輪郭がぼやけていく。
そもそも「応援という報酬」とは何だろう。職場で報酬と言えば、普通は給与や賞与、手当のことだ。応援はあくまで応援であって、報酬の代わりにはならない。「同情するなら金をくれ」ではないけれど、応援するならただ応援してほしいし、報酬と呼ぶなら実体のある報酬をくれ、と思ってしまう。
「数字には残らない」という言葉も宙に浮いている。売上なのか、人事評価なのか。おそらく「育休を取って育児をしても会社の直接的な業績にはならないが、それでも価値あるものとして扱われる」と言いたいのだろう。だとしたら、そう書けばいい。雰囲気の良い言葉だけが、意味を持たないままふわふわと漂っている。
一番奇妙だったのは、「育休を挑戦として扱う」という部分だ。 海外支店への異動に志願したり、新規プロジェクトを立ち上げたりするのは、確かに「挑戦」だろう。でも、父親が「育休を取る」ことの、一体何が挑戦なのだろうか。 初めての育児に臨む本人が、個人的な思いとして「自分にとっての挑戦」と呼ぶならよく分かる。しかし、会社側が「父親の育休取得」そのものをわざわざ「挑戦」と評価する世界観は、どこかおかしい。
本当に制度が成熟している職場なら、育休なんて特別な挑戦でも何でもなく、「子どもが生まれたので半年休みます」「分かりました、引継ぎはこちらで調整します」と、淡々と進むはずだ。「勇気を出して育休を取れる会社」よりも、「育休を取るのに何の勇気もいらない会社」の方が、よほど健全ではないだろうか。
部長の例え話も、現実の職場を想像すればするほど不自然だ。 24時間365日の激務、いつ呼び出されるか分からない、言葉の通じない顧客。これらを会社員の文脈でそのまま受け取れば、「意思疎通の難しい厄介な顧客を相手にする、24時間拘束のブラック部署」という話になってしまう。 しかも「自ら志願した」という言葉には、「本来自分の役割ではなかったものに、わざわざ手を挙げた」というニュアンスがつきまとう。育休を取るかどうかは本人の選択だとしても、彼は父親なのだから、育児そのものに「志願」したわけではない。「本来女性がするはずの仕事に、男性がわざわざ手を挙げた」という、古い男女役割分担の価値観がうっすらと透けて見える。
さらに、このやり取りが実際の会議室で起きたと想像すると、かなりしんどい。 本人が挨拶をしようとした瞬間に、部長が割って入り、「頑張れよ、応援してるぞ」と締めの言葉まで奪ってしまう。残された本人は、一体何を言えばいいのだろう。 事前に用意していた「ご迷惑をおかけしますが……」という無難な挨拶をそのまま読めば、「部長があんなに盛り上げてくれたのに、普通のトーンに戻すのか」という空気になるかもしれない。かといって「24時間戦えるようにリゲインでも飲んで頑張ります」などと部長の比喩に乗っかれば、育休に入る平社員に突然お笑いのスキルが要求されることになる。そして万が一滑ったら、それはなぜか本人の責任になるのだ。
本人が挨拶を終えたあとで、部長が自分の番として軽口を叩き、自分で綺麗に締めるのならまだ分かる。本人の発言機会を奪い、自分のジョークの後処理を部下に丸投げするのは、むしろ空気の読めない上司ではないだろうか。
「会議室が笑いに包まれた」という描写も、どこか現実離れしている。 育休で半年間人が抜ければ、残るメンバーには多少なりとも業務のしわ寄せが来る。本人は申し訳なさを感じているだろうし、周囲も「この忙しい時期に」という本音をゼロにはできないはずだ。そういう微妙な緊張感や重い空気が、部長の言葉で「少しだけ緩んだ」というのならリアルだ。しかし「笑いに包まれた」とまで言われると、まるで安っぽいドラマのワンシーンを見せられているような作られた感がある。
一文ずつ読み解いていくと、このエピソードには、現実の職場にあるはずの「摩擦」がすっぽり抜け落ちていることに気づく。 当事者の戸惑い。同僚が抱える微妙な負担感。人員調整に走る管理職の苦労。ありがたいけれど少し恥ずかしいという複雑な感情。そして、笑った人と笑わなかった人の温度差。 そういう人間臭いノイズが一切なく、部長が完璧なセリフを言い、全員が絶妙なリアクションを取り、投稿者がそこから見事な教訓を引き出す。まるで「男性育休を応援する素敵な職場」という結論のために、都合のいい登場人物と場面を配置して作った寓話のようだ。
さらに不気味だったのは、この投稿に群がるコメント欄だ。 「自ら手を挙げる勇気、かっこいいです」「大変な道ほど、後で大きな力になる」。育休を取る父親の話なのに、皆「志願」「激務」「挑戦」という単語にだけ機械的に反応している。本文を自分の経験や感情で咀嚼し、その結果として言葉を返している気配がない。
元ポストにも、コメント欄にも、人間の手触りがない。 これがAIによって生成されたものかどうかは、もはや大した問題ではないのかもしれない。一番恐ろしいのは、人間が書いたのだとしても「人間である必要のない文章」になってしまっていることだ。 意味の薄いコメントを量産するインプレゾンビだけでなく、今や一次発信そのものまでが同じ構造になりつつある。「育休」「挑戦」「感動」といった反応されやすい記号を組み合わせて「いい話」を作り、そこにまた空虚な称賛が貼り付いていく。誰も相手を理解していないのに、表面上は会話が成立しているように見える。
社会人として20年以上働いてきたからこそ、「部長がそんな割り込み方をするか?」「平社員とそんな距離感か?」という違和感を匂いとして嗅ぎ取れる。でも、まだ働いたことのない人がこれを読めば、「会社とはこういうものだ」「育休とは勇気ある挑戦なのだ」と、実社会のサンプルとして学習してしまうかもしれない。
誰も経験していない出来事を、誰かが本当に経験したかのように流通させることが、いとも簡単にできる時代になった。 大量生産される「誰も生きていない人生の断片」を、何百万という人間が、自分の限られた寿命を削って読んでいる。生産側のコストは限りなくゼロに近いのに、消費する側は自分の人生の時間を支払っている。この圧倒的な非対称性は、情報汚染というよりも「認知の汚染」に近い。
社会に価値を還元せず、自分だけが利益(インプレッションや滞在時間)を吸い上げるこの構造は、まるで何かの病巣のようだ。受け手だけが本物の時間を差し出し、少しずつ歪んだ社会像を受け取っていく。いったい誰が得をしているのだろう。私たちは何のために人間として生まれ、有限な時間を生きているのだろう。
……まあ、こんな偉そうなことを言ったところで、「そもそも、その違和感を抱えながらスマホを何時間も眺めている時点で同じでは?」と突っ込まれたら、「おっしゃる通りでございます」とひれ伏すしかないのだけれど(笑)。

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