今、「誰にお金を渡すのか」によって、次の世代が目指す社会が決まる

前回、「社会に価値を与える人より、社会に損失を外部化しながら注目を集める人の方が儲かる社会は、長くは続かない」と書いた。では逆に、社会に価値を与えた人は、ちゃんと報われているのだろうか。ここを考えると、私は自分の仕事を思い出す。

たとえば、シェアサイクル。本市では、今や月に10万回ほど利用される規模になっている。朝、駅へ向かう人が使い、買い物に行く人が使い、電車を降りた先の最後の数キロに使う人もいる。一回一回は小さな移動でも、月10万回なら年間では100万回を軽く超える。それだけの人の移動を支える仕組みが、街の中に定着したということになる。もちろん、それを一人の自治体職員が作ったわけではない。事業者、土地を貸してくれる施設、庁内で協力してくれる部署、そして道路、公園、駅、商業施設などそれぞれの関係者がいて、利用してくれる市民がいる。公共政策は基本的にそういうものであり、一人の英雄が作るのではない。

だから、「月10万回使われたから、担当者に100万円のボーナスを払え」なんて単純な話をしたいわけではない。そんな制度にしたら、今度は乗車回数だけを増やす政策ばかりやるようになり、数字になりにくいけれど大切な仕事が逆に軽視されるかもしれない。それでも、どうしても考えてしまう。同じ一人の職員でも、「前年と同じように協定を更新しました」で一年を終える人と、「利用実態を分析してみよう」「駅前では需要を取りこぼしているんじゃないか」「事業者のCO₂削減効果の計算はこれでいいのか」と考え続ける人では、生み出している公共的な価値はたぶん同じではない。でも、給与明細にはほとんど現れない。

極端な話、何もしなくても年収は同じで、ものすごく良い仕組みを作っても年収は同じだ。新しいことをすれば、失敗したときの責任や、議会・上司への説明、苦情や監査リスクなど、調整相手と仕事が増えるだけ。成功した場合の個人的な経済的リターンはほとんど増えない。だとすると、あるところで合理的な人間は「余計なことをしない方が得なのでは?」と気づく。これは職員の意識が低いからではなく、むしろ制度を正しく学習した結果なのだ。組織は口では「チャレンジしよう」「市民目線で業務改善を」と言うが、本当のメッセージは言葉ではなく報酬体系が発している。このルールを何年も経験した人が「では、要求された仕事を要求された範囲でやります」となるのは、ある意味当然ではないだろうか。

その一方で、インターネットを見ると、7日間チャレンジ配信に10万人が集まり、スーパーチャットで短期間に何百万円ものお金が飛んでいる。もちろんエンターテインメントの価値を否定したいわけではない。笑いや癒やしは必要だ。しかしそれは基本的に一過性の消費であり、その瞬間に注意を集められれば大きなお金になる。一方で、毎月10万回、何年にもわたって市民の移動を支える仕組みを作った人には追加で1円も入らない。「本給に含まれています」と言われればそれまでだが、ここには何か奇妙なものを感じる。

今の社会は「注目」をお金に変える仕組みについてはものすごく高度になった。再生回数、同時接続数、スーパーチャットまで、全部リアルタイムで数字になる。でも、「公共的な価値」を測る仕組みは驚くほど未発達だ。渋滞を少し減らした、高齢者が外出しやすくなった、市民が問い合わせをしなくても済むように手続きを改善した。毎日何千人もの人がほんの5分便利になった。そうした社会全体での巨大な価値は、一つ一つが小さすぎて見えない。そして、うまくいけばいくほど「問題が起こらない」「普通に使えた」という形になり、成果が見えなくなる。査読者の仕事と同じで、社会を支える仕事ほど、成功すると存在が見えなくなるのはかなり皮肉だ。

そして、これは単なる「もっと公務員に金をよこせ」という話でもない。私はむしろ、社会が人間にどんな行動を学習させるのかという話だと思っている。人の役に立つ制度を作っても給料が変わらない仕組みで社会を回しながら、「強烈なことを言って10万人の注意を集めれば一晩で何百万円も入ります」という成功例を大量に見せ続ければ、一定数の人はそちらへ行く。一般人はお釈迦様ではないのだから、「社会的価値を作れ」と精神論で要求するだけでは足りず、実際に報われる仕組みを作らなければならない。

もちろん公務員を完全成果給にするのは危険だ。公共政策は複雑で、単一の指標で評価すると歪みが生じる。だから民間企業の営業歩合のようにはできない。でも、「何をやっても同じ」もまたおかしい。優れた仕事をした人には、昇任、昇給、表彰だけでなく、専門職としての処遇、希望する仕事を選べる権限、大きな裁量、研修に使える時間、次のプロジェクトを任せてもらえる信用など、明確な形で返していい。「あなたが余計に考えて、余計に働いて、良い結果を出したことを、この組織はちゃんと認識しています」というフィードバックがなければ、人は本当に「時間を定額で売っているだけ」になってしまう。そんな人ばかりになった行政は、ゆっくり弱くなる。

前回、私は社会を身体に例えた。でも考えてみれば、がん細胞を取り締まるだけでは健康な身体にはならない。正常な細胞にも、働き続け、役割を果たせる環境と栄養が必要だ。公共のために働く人や、目立たないところで制度を改善する人に「使命感でお願いします」と言い続けてはいけない。使命感は給与ではないし、「市民のため」という言葉は無限に追加労働を引き出せる魔法の通貨ではない。

だから私は、「一番儲かった人が一番偉い社会」にも「公共のために働く人はお金を考えるなという社会」にもしたくない。人の役に立つほど、報われる。便利なものや良い政策を作り、正しい研究をした人が報われる。一方で、人の誤解を利用し、損失を他人に押しつける方法では長期的には得をしない。社会の報酬表を少しずつそういう方向へ変えていく必要がある。

今、「誰にお金を渡すのか」によって、次の世代が目指す社会が決まる。だから、どんな人に報酬を与えるのか、どんな仕事に光を当てるのかは、単なる給与制度の話ではない。未来の社会に、どんな人間を増やしたいのか。その意思表示なのだと思う。

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