『生理的に嫌』と殴りつけ、後から理由を募集する――感情のZIPファイルと中年の防衛機制

X(旧Twitter)のタイムラインをぼんやりと眺めていたら、ある「よさこい」の演舞動画を引用した、こんなポストが目に留まった。

「説明しにくいんだけど、めちゃ生理的嫌悪感がある。。。。」

動画の中では、派手な衣装を纏った若い男性たちが、堂々と身体を躍動させていた。センターの男性を中心に、全員が一糸乱れぬ動きを見せている。ここに至るまで、気が遠くなるほどの時間をかけて練習を積んできたのだろうということは、一目見ただけで伝わってきた。

誤解のないように前置きしておくが、私はこの手の踊りが特別好きなわけではない。 むしろ「一緒にやりませんか」と誘われたら、たぶん全力で辞退する。

私は昔から、集団で同じ振付を頭に叩き込み、寸分違わぬ角度まで腕を上げ、同じタイミングで声を出し、全員で一つの「型」に嵌まりにいくような活動がどうも苦手だ。 自分では十分に腕を上げているつもりでも「もっと上!」と修正され、思い切り声を出したのに「声が小さい!」と叱られる。身体の柔軟性や関節の可動域なんて人それぞれ違うのに、たった一つの「正しい動き」が設定され、そこから少しでもズレると徹底的に矯正される。

そして、その苦しい過程を乗り越えて全員の動きがピタッと揃った瞬間、 「みんなで一つになりました!」 という感動のクライマックスがやってくる。 もちろん、それが好きな人にとっては、何物にも代えがたい圧倒的な達成感なのだろう。 ただ、どこかひねくれている私は、その光景を前にしても、心の片隅で「……で、だから何?」と冷めてしまうのだ。

私が深く心を動かされるのは、ベクトルがまったく逆のものだ。 息遣いの微細な震えにまで神経を研ぎ澄ませて歌い上げる歌手。たった一本の線、一塗りの色に「その人にしかない感覚」が滲み出る絵。正確無比でありながら、どこか大胆な書道家の筆遣い。 大勢が均質化して「同じもの」になることよりも、一人の人間の奥底から、その人にしか生み出せない異物が立ち現れる瞬間のほうに、私は強く惹かれる。

極端な話、集団ダンスであれば、後列の一人が欠席して別の誰かが代役に入っても、よほど熱心に見慣れたファンでなければ気づかないだろう。 でも、手嶌葵さんのライブに行って手嶌葵さんがいなかったら、その公演は絶対に成立しない。柴崎先生の絵も、柴崎先生という固有のフィルターを通さなければこの世には生まれない。 私はたぶん、「みんなの中で個人が消え去る美」よりも、「個人が代替不能になる美」のほうが好きなのだ。

だから、よさこいを自分でやりたいとは全く思わない。 それでも、あの動画を見て「生理的に嫌だ」などとは思わなかった。 「よくぞここまで揃えたなあ」 「ずいぶん練習したんだろうな」 とその熱量にただ感心しただけだった。

むしろ私が、なんとなく「生理的に嫌だ」と薄ら寒さを感じたのは、踊りのほうではない。顔も名前も出して踊っている実在の人間たちの動画を引っ張り出し、理由もろくに言語化しないまま「生理的に嫌」と世界に向けて公言してはばからない、その行為のほうだった。

ところが、そこで少し立ち止まった。 よくよく自省してみれば、私自身も日常的に「なんか生理的に嫌だな」という言葉を口にすることがある。 では、この「生理的に嫌」とは、一体何なのだろう。

少し考えてみた。 すると、私があのポストに対して抱いていた「嫌」という感情は、まったく一枚岩ではないことに気がついた。

理由も示さずに、他人の顔面に「嫌悪」のスタンプを押し付けることへの抵抗感。 「生理的なものだから仕方ない」と開き直り、自分の中に生まれた感情の出処を説明する責任まで、いとも簡単に免除しているように見えることへの違和感。 そして、言われた側には反論するための足場が一切用意されていないという理不尽さ。

さらに恐ろしいのは、その一言に、 「分かる」 「私も嫌だと思ってた」 「なんとなく気持ち悪いよね」 と、無数の観客が群がってくることだ。

最初はただ「私はこれが嫌いだ」という一人の主観だったはずなのに、同調する人数が増えるにつれて、いつの間にか 「あの被写体には、人を嫌悪させる客観的な『何か』があるのだ」 という、対象側の性質を問う話にすり替わっていく。

これは、小学生の頃に流行った「〇〇菌」といういじめの構造に少し似ている。 一人が「あいつキモい」と言い出し、二人目が「分かる」と便乗し、十人が避け始める。 するといつの間にか、「みんなから嫌われているのだから、あいつ自身に嫌われるだけの確固たる原因があるのだ」という空気が完成する。 しかし、そこで確実に起きている事実は、「みんながその人を嫌った」という、あくまで観察者側の認知の出来事でしかない。

考えているうちに、妙な比喩が頭に浮かんだ。

最初は、「よさこいを見てウンコを漏らした」という単なる個人の生理現象の話だったはずなのに、周囲にも次々と漏らす人が続出すると、いつの間にか 「よさこいには、ウンコを漏らさせる何か特別な成分があるのではないか」 という真顔の研究が始まってしまうのだ。

「衣装が原因ではないか」 「あの動きがマズいのでは」 「過剰な演出が……」 「背景にある文化的要因では……」 そうやって、みんなで一斉に「ウンコを誘発する原因」を対象の側に探し始める。

いやいや、ちょっと待て。 対象を解剖する前に、一度「なぜ私たちはこんなにも一斉にウンコを漏らしてしまったのか」、自分たちの括約筋の緩さのほうを疑ってみてはどうだろうか(笑)。 多数の主観をいくら足し算したところで、それだけで対象の「客観的な欠陥」が証明されるわけではないのだ。

ここで、ようやく少し腑に落ちた。 私が最初に感じた「生理的に嫌」という感情の中には、実はいろいろな複雑な思考や違和感がギュウギュウに圧縮されていたのだ。

つまり、「生理的に嫌」というのは、理由が存在しない感情なのではない。 理由がまだ解凍されていない感情なのだ。 それは、いわば感情のZIPファイルのようなものである。

ダブルクリックして開く前は、「なんかイヤ.zip」という曖昧なファイル名しか見えない。 でも、いざ解凍してみると、そのフォルダの中には、 怒り。 警戒。 昔の記憶。 不公平感。 価値観の衝突。 羞恥心。 寂しさ。 ——そんな、じつに多様なファイルが格納されている。

そう考えると、最初に「生理的に嫌」と書き込んだ例の投稿者についても、少し見方が変わってきた。

どうやら本人はその後、何度も動画を見返して「自分は何が嫌なんだろう」と自問自答していたらしい。さらに過去の発言を辿ってみると、以前はフェスやライブといった熱量のある文化の内側にいた一方で、最近の自分を「中年系冷笑モード」と自嘲気味に表現していたこともあったそうだ。 高校時代には、本人いわく「リア充高校でリア充踊り」も謳歌していたという。 さらに興味深いことに、似たような踊りでも小学二年生がやっていたら「おじさん目線で号泣するかもしれない」ともこぼしていた。

もしそうであるならば、彼が抱いた嫌悪の矛先は、単純に「よさこいの振付」や「ダンサーの容姿」ではないのかもしれない。

かつては自分もその渦中にいた、若さや勢いに満ちた世界。 仲間と一緒に、人前で本気になれた時間。 身体を大きく使い、一切のためらいなく自己を表現できる眩しさ。

懐かしさ。 羨ましさ。 気恥ずかしさ。 現在の冷え切った自分との距離感。 もう二度と戻らない時間への寂しさ。

そうした複数の名状しがたい感情が、動画をきっかけに一気に「ゾワッ」と押し寄せてきて、本人でさえ瞬間的には処理しきれず、とりあえず「なんかイヤ.zip」に放り込むしかなかった——という可能性は十分にある。

もちろん、他人の本当の内面など誰にも分からない。 ただ、少し意地悪な例えをすると、こういうことだ。

昔は髪の毛がフサフサで、流行りのヘアスタイルも楽しんでいた中年男性が、少し頭髪の寂しくなった現在、ツーブロックにした若者を眺めて、 「俺も若い頃は流行りの髪型をしてたんだけど、なぜか今の若者のフサフサした髪を見ると、無性に生理的嫌悪感があるんだよね。サイドの刈り上げの比率がおかしいのかな。髪型の構造の問題かな」 と真剣に研究していたら。 「いや、そこまで若者の頭皮を分析する前に、自分の加齢との関係性も少し疑ってみたら……」 とは思うだろう(笑)。

欲しかったのに手に入らなかったものを「あんなもの大した価値はない」と見下すのが「すっぱい葡萄」だとするなら、かつて自分が持っていたはずのものの価値を意図的に下げることで、それを失った現在の痛みを小さくしようとすることも、また人間にはあるのだろう。

若さ。本気。勢い。仲間。一体感。 「もう今の自分にはない」と真正面から直視するより、 「なんかあれ、ダサくない?」 「寒いよね」 「生理的に無理」 と価値を暴落させてしまったほうが、心はいくらか楽になる。 そういう認知の防衛機制も、人間には確かに備わっている。

そして、この文章を書きながら、もう一度元のポストを確認しに行ってみた。 すると、引用されていたよさこい動画の元ポストは「表示できません」に変わっていた。

なぜ表示できなくなったのか、真相は分からない。 元投稿者が自ら削除したのかもしれないし、アカウント側の何らかの事情かもしれない。今回の騒動が関係しているのかどうかも定かではない。 だから、「心ない言葉に傷ついた演者が動画を削除させたのだ」などという悲劇の物語を、こちらで勝手に捏造するつもりはない。

ただ、少し考えてしまった。 あの動画に映っていた全員が全員、この騒動を嫌なものとして受け取ったとは限らない。 「めちゃくちゃバズった(笑)」と逞しく笑っていた人だっていたかもしれない。 でも逆に、自分の顔や身体が二千万人以上の目に晒され、「生理的に嫌」というたった一言を起点にして、見ず知らずの人間たちから容姿や動きまで品評されることを不快に感じた人が、ただの一人もいなかったと考える理由もない。

そもそも、あの映像がチームの公式動画だったのか、観客が勝手に撮影したものだったのかすら、私は知らない。 仮に祭りで撮影や拡散が認められていたとしても、 「その場にいる観客から、祭りという熱狂の文脈の中で見られること」と、 「自分の映像だけが元の文脈から完全に切り離され、『生理的嫌悪感』という冷や水のような言葉とセットになって数千万人のスマートフォンへ流れていくこと」は、まったく意味が違う。

そして今、SNS上には少し奇妙な状態が広がっている。 大元の動画は見えなくなった。 しかし、「説明しにくいんだけど、めちゃ生理的嫌悪感がある。。。。」という言葉のほうは、二千万を超える表示数とともに亡霊のように残っているのだ。

生身の人間が「動画」になり、動画が「コンテンツ」になり、コンテンツが「他人の感情を語るための材料」になり、最後には元の映像そのものが見えなくなっても、そこにベタッと貼られた評価のラベルだけが残り続ける。 SNSという空間の構造的ないびつさを、少し象徴しているようにも見えた。

今回いろいろと考えてみて、一番大事だと思ったのは、結局のところ、顔も知らない誰かの「生理的に嫌」の正体を暴いて論破することではなかった。 私自身も、無自覚に同じ言葉を使う人間だからだ。

感情が突発的に発生することは、たぶん誰にも止められない。 人を見て、ものを見て、反射的に「うわ、イヤだ」と思うことは生きていれば当然ある。

問題は、その次のステップなのだと思う。 「生理的に嫌だから、嫌なのだ」で思考を止めて終わるのか。 それとも、 「私はなぜ、これほどまでに嫌だったんだろう」 と、いったんその感情を自分の手のひらに持ち帰るのか。 そして、その得体の知れないZIPファイルを、少しずつ解凍してみるのか。

「生理的に嫌」というのは、相手を無条件に叩きのめす強い結論のように見える。 でも同時に、 「私はまだ、自分の複雑な感情をうまく言語化できていません」 という、極めて無防備な告白でもあるのだと思う。

そう考えれば、「生理的に嫌」と感じてしまった自分までを過剰に否定する必要はない。 ただし、その未解凍のファイルで、他人を殴りつける必要もない。

まずは、自分のデスクトップでダブルクリックして開いてみる。 そこから出てくるファイルたちは、時として「対象の欠点」なんかよりも、自分自身の現在地について、ずっと多くの残酷な真実を教えてくれるのだと思う。

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