死者に鞭打ってはいけない理由

清水良太郎氏の突然の訃報を受け、柳家小はだ氏が「小学生時代に彼からいじめを受けていた」とSNSに投稿した。

第三者である私たちには、その告発が客観的な事実であるかはまだ分からないし、清水氏が自ら命を絶った原因も分からない。だから当然、彼を確定的ないじめ加害者として断罪することも、その死を「過去の行いの因果応報だ」などと語ることも許されない。

それでも、小はだ氏の投稿の行間からは、ひしひしと伝わってくるものがあった。「殴られっぱなしで終わりたくない」という切実な響きである。そこには、昔の出来事を遠くから懐かしむような温度は微塵もなかった。何十年もの間、決して冷めることなく心の底でグツグツと煮え滾っていたものが、訃報をきっかけに堰を切って噴き出したような、生々しい痛みがあった。

清水氏が生きている間、小はだ氏には、少なくとも理屈の上ではまだ「いつか」という時間が残されていた。「いつか本人に直接言えるかもしれない」「いつか謝罪を求められるかもしれない」「いつか証言者が現れるかもしれない」「いつか、自分の側から一言だけでも突き返せるかもしれない」――。 実際に行動に移す予定があったかどうかは分からない。それでも、「可能性」だけは確かに残されていたのだ。

ところが、相手がこの世からいなくなった瞬間、その「いつか」はすべて消滅してしまった。

本人に問いただすことも、謝罪させることも、あるいは否定や弁明の言葉を聞くことさえ、もう二度とできない。行き場を失った自分の中の怒りだけが、この世にポツンと置き去りにされてしまったのだ。

しかも、人は亡くなると無条件に美化されやすい。「若すぎる死だった」「本当は繊細で優しい人だった」「素晴らしい才能があった」「ご家族の悲しみはいかばかりか」。そうした追悼の言葉が静かに積み重なり、故人の人生が穏やかに、そして美しく編集されていく。

その光景を見たとき、小はだ氏には「自分が受けた痛みや被害を訴えることすら、彼の死と一緒に『なかったこと』にされてしまう」ように見えたのではないだろうか。このまま黙っていれば、いじめられたという苦しい記憶に加えて、「最後まで何も言い返せなかった」という重い後悔まで背負い込むことになる。そして今を逃せば、世間からは「今さら死者のことを蒸し返すな」「もう亡くなった人だろう」「ご遺族の気持ちを考えろ」と非難され、永久に語る機会を奪われてしまう。

だからこその、あのタイミングでの投稿だったのだろう。それは、公正な事実確認を求める告発というよりも、少なくとも「自分の記憶」をこの世に確かに残すための、必死の、そして最後の杭打ちだったのかもしれない。

「解決不能な痛み」に耐えられないのは誰か

そんな小はだ氏の投稿に対して、寺原きよみ氏が送ったリプライがあった。「最大級の復讐は忘れ去ること」「このポストを区切りに、自分の人生を豊かに生きてほしい」という趣旨の言葉だ。

一見すると、とても優しい言葉に思える。相手の怒りや恨みに理解を示し、「これ以上過去の記憶に苦しめられず、あなた自身の人生を幸せに生きてほしい」と願っている。そこに悪意があったとは、私も思わない。

それでも、私はこの返信を読んだとき、どうしても生理的に受け付けないものを感じた。なぜそんなにザワザワとした違和感を抱いたのか、ずっと考えていた。最初は、「死者に鞭打つな」という世間の常識を押しつけているように見えたからだと思った。あるいは、「同じ大学のOG」という立場から、取り乱している後輩に大人の振る舞いを説教しているように見えたからかもしれない。

しかし、考え続けるうちにもう一つ別の視点が浮かび上がってきた。

人は、誰かの激しく生々しい怒りや悲しみを目の当たりにしたとき、その感情そのものに長く付き合うことがひどく苦手なのではないか。

つい励ましたくなる。解決策を示したくなる。別の見方を与え、「これを区切りにしましょう」と強引に終わりを作りたくなる。それは必ずしも、相手を黙らせてやろうという悪意から来るわけではない。目の前に「解決不能な苦しみ」が横たわっていて、自分には何もしてやれない。その無力な状態にただ留まり続けることに、人間は耐えられないのかもしれない。

今回の問題には、そもそも明確な終着点が存在しない。清水氏はすでに亡くなっているため、反論も、説明も、謝罪も、関係修復も不可能だ。周囲の人間が、何十年も前の出来事を今さら完全に検証することも難しい。裁判のように証拠を並べて白黒をつけることも、第三者が間に入って仲裁することもできない。小はだ氏の怒りに対して、誰もきれいな「決着」を与えることはできないのだ。

その圧倒的な解決不能さを見せつけられた周囲は、無意識のうちに、痛みを訴えている小はだ氏の側へ「終結」を求めてしまう。

「忘れることが最大の復讐です」 「これを区切りにしてください」 「前を向いて、自分の人生を豊かに生きてください」

これらは小はだ氏を思いやる言葉であると同時に、見ている側自身が「終わりの見えない怒りと同じ場所に居続けなくて済むようにするため」の言葉でもある。「死者に鞭打つな」という社会の規範も、純粋に死者の尊厳や遺族を守るためだけに働くとは限らない。ときには、「死者はもう何もできないのだから、生きているあなたが終わらせてください」と、解決不能な問題の処理を、丸ごと被害を訴える側へ押し返す働きをしてしまう。

死者にはもう何も求められない。だから、生きている側に忘却と沈黙を求める。その結果、問題の本質が吟味される前に、「そもそもそのような恨みを公にすること自体が、みっともない」という別の話へすり替わってしまうのだ。

小はだ氏が提起したのは、「自分はかつてこういう被害を受けた」という事実に関する問題だった。しかし寺原氏の返信では、その内容に触れるより先に、「表に出る人間としてどう振る舞うべきか」「この怒りをどう処理すべきか」「いつ区切りをつけるべきか」という態度が問われている。問題を起こしたとされる側の責任ではなく、問題を可視化した側の「品位」が審査されてしまっている。

私が嫌悪感を抱いたのは、まさにこのすり替え構造なのだと思う。

「理解」が会話を打ち切る凶器になるとき

寺原氏は、決して小はだ氏を突き放しているわけではなく、むしろ積極的に関わろうとしている。名前を呼び、同じ大学のOGだと名乗り、「自分も似たような苦しみを経験したから分かる」と寄り添う姿勢を見せている。

けれど、彼女は小はだ氏に何も尋ねてはいない。

「なぜ今、それを書こうと思ったのか」「何を一番恐れているのか」「忘れたいのか、それとも忘れたくないのか」「この投稿によって、何を残したいのか」。その心の内を一緒に探ろうとするプロセスをすべてすっ飛ばして、「あなたは恨みに苦しんでいる。解決策は忘れることだ。だからこの投稿を区切りにしよう」と、本人の内面とその結論を外から勝手に決めてしまっている。

関わっているように見えて、実はひどく閉じているのだ。「あなたの気持ちは分かります」という言葉が、対話への入口ではなく、「これ以上の探索を終了する」という宣言になってしまっている。

小はだ氏の本当の気持ちは、Aかもしれないし、Bかもしれない。あるいは本人にすらまだ言葉にできない感情が、どろどろと混ざり合っているかもしれない。そこへ横からパッと現れて、「あなたはCですよね。分かりますよ」と結論を置かれてしまう。仮に小はだ氏が「いや、違います」と答えたとしても、「まだ感情が整理できていないから、そう思うのでしょうね」と、強者の枠組みの中へ都合よく回収されてしまいそうな怖さがある。

立ち直れない時間のそばで、無力さに耐えること

おそらく、私が本当に求めているのは、すぐに答えを出すことではないのだ。怒っている人を「正しい方向」へ導くことでも、きれいな意味を与えることでも、必ず前向きな結末へ着地させることでもない。

まずは、終わっていないものを、終わっていないままそこに置いておくこと。

「今はまだ分からないですよね」 「あなた自身も答えを出せていないのかもしれませんね」 「忘れられなくて当然ですよね」 「それでも、あなたはここにいていいんですよ」

そう言える「余白」なのだと思う。

忘れるということは、他人からの命令や提案によって選べるような行為ではない。十分に怒り、十分に自分の言葉で語り、自分の傷が確かに存在したのだと認められ、その記憶が以前ほど自分を支配しなくなったとき、結果として思い出す頻度が減る。それが自然な形だろう。忘却を、回復の条件にしてはいけないのだ。

小はだ氏にとって、今の時点で「忘れること」は、過去から自由になることではなく、「殴られっぱなしの人生を確定させること」を意味していた可能性がある。だから今は、気の利いた結論を渡すよりも、結論が出ないドロドロとした時間に、ただ黙って付き合うことの方がずっと必要だったのではないだろうか。

他人のすさまじい怒りや悲しみを前にして、何も解決してやれない無力な自分を、ただ引き受けること。励ましの言葉で急いで蓋をしないこと。「理解した」つもりにならず、相手から発せられる言葉によって、自分の理解が覆る余地を常に残しておくこと。

それこそが、私が考えていた「余白バー」の本来の役割なのだと思い至った。

何か気の利いたアドバイスをするための場所ではない。問題を解決できないとき、問題を提起した本人を「解決」してしまわないための余白。人の怒りや悲しみを、急いで前向きな物語へと変換せず、その人がまだその痛みの渦中にいることを静かに許す場所。

世界に対して開いているということは、最初から答えを持たないということではない。自分なりの答えを持ちながらも、目の前の人には「その答えを覆す権利がある」と認めることなのだろう。

そして成熟とは、苦しんでいる誰かを早く立ち直らせる技術ではなく、「立ち直れない時間のそばで、自分の無力さにじっと耐えられること」なのかもしれない。

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