――『DIE WITH ZERO』をあまり好きになれない理由
『DIE WITH ZERO』を紹介する動画では、働いて食料を蓄えるアリに向かって、キリギリスが問いかける。
そんなに蓄えて、いつ遊ぶのか。
生き延びたあとに、人生を楽しむ時間は残っているのか。
人生には期限がある。若いうちにしかできないこともある。働いて貯めることに夢中になり、やりたかったことを永久に先延ばしにするのは、確かにもったいない。
そこまでは分かる。
それでも私は、この考え方をあまり好きになれなかった。
考えてみれば、寓話のアリは、誰かに脅されて餌を集めているとは限らない。
毎日決まった時間に起き、仲間と働き、少しずつ巣が整い、食料が積み上がっていく。その生活自体に手応えを感じているかもしれない。
今日もよく働いた。
冬への備えが一つ増えた。
仲間の役に立てた。
そんな日々を、アリは案外じんわりと機嫌よく生きているかもしれない。
そこへキリギリスがやってきて、
餌を貯めても、食べ切れずに死んだら損だよ。
もっと遊んで、思い出を作ったほうがいい。
そんな生き方では、人生を十分に使ったことにならないよ。
と教え始める。
これは、本当に親切なのだろうか。
アリを幸せにする考え方なのだろうか。
遊ぶ人を支える労働は、消えない
旅行へ行く。
ホテルに泊まる。
外食する。
テーマパークで遊ぶ。
家事を外注して、家族との時間を増やす。
どれも悪いことではない。私も旅行や外食は好きだし、お金を使って時間を買うことにも価値があると思う。
ただし、自分が労働から離れて遊ぶとき、遊びを成立させる労働まで消えるわけではない。
電車や飛行機を動かす人がいる。
料理を作り、皿を洗う人がいる。
ホテルの部屋を清掃する人がいる。
荷物を運び、道路を直し、電気や水道を維持する人がいる。
私が「労働時間を減らして経験を増やした」とき、その経験は、別の誰かの労働時間によって提供されている。
『DIE WITH ZERO』は、労働を、有限な生命時間をお金に変える行為として描く。そして、そのお金を経験と思い出へ変換することを勧める。
しかし、その変換の途中には、必ず他人の労働がある。
私の生命時間
→お金
→他人の生命時間によって作られたサービス
→私の思い出
という経路である。
自分の生命時間を大切にする思想なのに、経験を供給する側の生命時間は、背景へ消えてしまう。
全員が同じ思想で動いたら、どうなるのか
個人への助言が社会的にも妥当かを見るには、
全員が同じように行動したらどうなるか
と考えてみるとよい。
十分に資産を形成した人が、早めに仕事を減らし、旅行、外食、レジャー、介護、家事代行などのサービスを多く消費する。
一方で、それらを提供する側も、
若いうちにしかできない経験を優先しよう
労働時間を減らそう
お金を使って思い出を作ろう
と考えたら、当然、働き手は減る。
すると、
- サービス料金が上がる
- 営業時間や運行本数が減る
- 医療や介護を受けにくくなる
- 人手不足を補う人の負担が増える
- 十分なお金を持つ人しか経験を買えなくなる
という調整が起きるだろう。
その結果、資産を持つ人は値上がりしたサービスを買えるが、資産の少ない人は、より長く働きながら、他人の経験を支える側に残るかもしれない。
つまり『DIE WITH ZERO』は、全員が実践できる社会原理というより、
十分な数の人が従来どおり働き続けてくれることを前提に、一部の人が早めに労働から降りるための個人戦略
なのではないか。
全員に配れるOSではなく、まだ社会にアリがたくさんいる時期だけ使える脱出用の裏技に近い。
キリギリスが自由に歌えるのは、冬になっても巣と食料が存在しているからである。
そもそも、調整できる人ばかりではない
この思想には、暗黙の読者像がある。
ある程度の収入があり、貯蓄もあり、
将来のために残しすぎるか、今使うか
を選べる人である。
しかし、低所得でその日暮らしをしている人には、そもそも調整する余白がほとんどない。
旅行へ行けるなら行きたい。
仕事を減らせるなら減らしたい。
家族との時間を増やせるなら増やしたい。
けれど、働かなければ家賃や食費を払えない。
そういう人に、
死ぬときにお金を残しても意味がない
若いうちに経験へ使おう
と言っても、
残すお金があるなら、そうするかもしれませんね
という話にしかならない。
問題は勇気や人生観ではなく、選択可能な資源がないことである。
一方で、十分な資産を持つ人は、
私はもう人生を楽しむ段階に移ります
と労働から降りられる。
そして、その人の旅行、外食、医療、介護を、降りる選択肢のない人が支える。
この非対称性を無視して、「人生を楽しむ勇気」の話だけをされると、私は少し白けてしまう。
労働は、人生から差し引かれるだけの時間なのか
そもそも、働くことは常に、人生を楽しむために仕方なく差し出す代価なのだろうか。
確かに、苦痛でしかない仕事もある。本人に合わない職業へ長年縛られることもある。過労や理不尽な職場環境を美化する必要はない。
しかし、労働には別の側面もある。
技能が身につく。
社会の仕組みが分かる。
誰かの役に立つ。
人間関係ができる。
自分の担当したものが、後に残る。
例えば「山岳ガイド」という職業。山が好きで人と接することも好きな人にとっては天職であり、人生そのものかもしれない。でも、足腰が弱く、人と話すことにも強い苦痛を感じる人にとっては、きつくてやりがいのないブラックな仕事に見えるだろう。
問題は「労働か遊びか」ではなく、本人の能力、欲求、自律性と、行為が適合しているかどうかである。
アリが巣作りそのものを愛しているなら、キリギリスがそれを「遊ばなかった時間」と数える必要はない。
アリを救うふりをして、アリの幸福を否定していないか
『DIE WITH ZERO』が最もよく効くのは、おそらく、
本当はしたいことがある
お金も時間もある
まだ実行できる体力もある
しかし不安や習慣のために、無意識に延期している
という人だろう。
その人に、
備えすぎて、期限のある人生を失っていませんか
と問うことには意味がある。
しかし、それを人生一般の真理にすると、
- 毎日働くことに満足している人
- 静かな日常を好む人
- 家族を養うことに誇りを持つ人
- 貯蓄が増えることに安心を感じる人
- 自分より次の世代へ残すことを望む人
まで、
本当は別の経験をしたかったはずだ
社会の価値観に縛られているだけだ
人生を十分に楽しんでいない
と診断しかねない。
アリは、自分を不幸だと言っていない。
それなのに、キリギリスがアリの倉庫をのぞき込み、
こんなに残して。もったいない。
あなたはもっと遊べたはずだ。
私のように生きたほうがよかったのに。
と語る。
それは、アリを救っているというより、キリギリスの幸福観で、アリの人生を採点しているだけではないか。
個人への薬と、社会の原理は違う
私は、『DIE WITH ZERO』の役割を否定したいわけではない。
働きすぎ、貯めすぎ、延期しすぎている人に対する補正薬としては、有用だと思う。
ただし、薬が効く人がいることと、その方向が人類全体の正解であることは違う。
この思想が教えてくれるのは、
備えすぎにもリスクがある
という片側の危険である。
そこから、
働くより遊ぶほうが人生である
思い出を多く作った人ほど豊かである
資産を残した人は、人生を使い残した
社会全体がこの方向へ進むべきだ
とは言えない。
私があまり好きになれなかったのは、人生を楽しめと勧められたからではない。
自分の経験を支える他人の労働を背景へ隠したまま、経験を買う側の人生だけを「本当の人生」として前景化しているように見えたからだ。
アリは、キリギリスのためだけに餌を集めているのではない。
そして、アリの幸福は、キリギリスに教えてもらわなくてもよい。

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