面白い実験をしてみた。
最近、私は、エックスで気になるポストを考察して日記にすることにハマっている。
ディズニーホテルのビュッフェの食べ残しに怒る人。
お米屋さんなのに、なぜかアメリカが日本を破壊する話ばかりする人。
そういうポストを見て、
「この人は、なぜここで怒るのか」
「なぜこの話とこの話が接続されるのか」
「この人の中では、どんな世界地図になっているのか」
を考えて日記に記すのが面白い。
そこで、ふと思った。
AIに架空のポストを作らせてみたらどうなるのか。
つまり、人工的に「考察のネタ」を作ってみる実験である。
AIが作ったポストは、こんな感じだった。
最近の若い人って、すぐ「無理です」「しんどいです」って言うけど、正直こっちも昔は無理してやってきたんだよね。
仕事なんて多少理不尽でも、そこで踏ん張るから成長するんじゃないの?
なんでもかんでも「自分に合わない」で逃げてたら、そりゃ社会人力なんて身につかないと思う。
…なるほど。
言いたいことはわかる。
若者批判。
理不尽に耐えろ論。
社会人力。
世代間対立。
苦労の再生産。
考察の素材としては、きれいに揃っている。
でも、まったく響かないポストだった。
なんというか、きれいすぎるのだ。
癖が無さすぎるのだ。
たしかに、それっぽい。
でも、琴線に触れない。
それは、このポストの主張に賛成か反対かという話ではない。
むしろ、実在のエックスであれば、似たようなことを言っているポストは山ほどあると思う。
でも、本当に強いポストは、ここに具体例が入る。
「新人に、明日の午前中までに資料を直してと言ったら、『今日は予定があるので無理です』と言われた」とか。
「土日で一回考えてきてと言ったら、『休日なので対応できません』と言われた」とか。
「お客さんの前では笑顔でいてねと言っただけなのに、『感情労働がきついです』と言われた」とか。
そういう具体例が入ると、一気にポストが強くなる。
なぜなら、そこに投稿者本人の価値観が漏れるからだ。
読者はそこで、
「いや、それは若者が弱いんじゃなくて、あなたがパワハラなのでは?」
「明日の午前中までって、指示が遅いだけでは?」
「土日に考えてこいは、普通におかしいのでは?」
「でも、まあ、最近そういう若者がいるのもわかる」
みたいに、共感と反発のあいだで揺れる。
この揺れが、ポストの力なのだと思う。
AIが作った文章は、論点としては整っていた。
でも、現実感がなかった。
どこでその人が怒ったのか。
何に傷ついたのか。
どんな職場で、どんな人生を通って、その言葉になったのか。
それが全く見えない。
つまり、AIの文章には、傷がない。
ここで思った。
AI生成の文章が「AIっぽい」とすぐわかるのは、たぶん文体だけの問題ではない。
独特の、AIっぽい言い回しがある、というものもちろんあるが、
でも、もっと深いところでは、AIの文章には「歪んでしまった感じ」がないのだと思う。
この宇宙に無理やり生まれさせられて、
頼んでもないのに生きさせられて、
苦しみや痛みを受けながら、
それでも何とか死なずに生きている。
そんな理不尽さの中を耐え抜いてきた、人として生きてきた、履歴がないのだ。
もちろんAIは、命令すればこの歪みを人工的に作らせることもできなくはない。
「もっとクセ強めにしてください」と言えば、クセのある文章も書ける。
「老害っぽくしてください」と言えば、老害っぽいポストも書ける。
「米を売っている人なのに、陰謀論を急に語ってください」と言えば、たぶんそれっぽいものも書ける。
でも、それは「歪みを足した文章」でしかない。
本物の人間のクセは、そうではない。
その人は、自分ではクセを出そうとしていない。
むしろ本人の中では、全部、まっすぐにつながっている。
昔の暮らしが懐かしい。
それが失われた。
日本が壊された。
アメリカに洗脳されたからだ。
税が重い。
政治が悪い。
外から見ると、「ノスタルジーの話が、なんでアメリカの洗脳の話につながるの?」と思う。
でも、その人の中では、そこが自然につながっているのだ。
そこに、人生がある。
傷がある。
怒りがある。
恥がある。
失われたものへの執着がある。
エコーチェンバーがある。
その人の肉体というフィルターがある。
AIのクセは、演技だが、人間のクセは、その人の人生体験のすべてが発酵したものなのだ。
調味料としてクセを足すことはできる。
でも、人間臭さは時間と環境がないと出てこない。
この話は、AI生成の顔画像にも似ている。
AIで作られたアイドル顔は、たしかにきれいだ。
目鼻立ちが整っていて、肌もなめらかで、左右対称で、欠点が少ない。
でも、なぜか魅力が薄い。
それは、顔の造形が悪いからではない。
むしろ整いすぎている。
本物の人間の顔には、その人がその身体で生きてきた履歴がある。
たとえば、背が低くてお腹が出た50歳の男性がいたとする。
その人は、その身体で50年生きてきた。
見た目にコンプレックスもあったかもしれない。
人前でからかわれたこともあるかもしれない。
鏡を見るたびに、少し嫌な気持ちになったこともあるかもしれない。
あるいは、その身体を笑いに変えて生きてきたかもしれない。
その履歴は、姿勢に出る。
目線に出る。
照れ笑いに出る。
腹を引っ込めようとする肩の力に出る。
場を明るくしようとする無理な笑いに出る。
人前でどう振る舞うかという、細かい癖に出る。
本物の人間は、身体そのものが過去ログなのだ。
AIは「50歳男性」「お腹が出ている」「恥ずかしそう」「自然な表情」という要素を合成できる。
でも、その身体で50年生き抜いてきた履歴までは、なかなか表現できない。
ここで、「美は細部に宿る」という言葉を思い出した。
ただ、この「細部」は、単に情報量が多いという意味ではないのだと思う。
毛穴を描けばいい。
シワを足せばいい。
肌に少しムラを入れればいい。
髪の毛を一本一本描けばいい。
それだけでは足りない。
大事なのは、その細部が、同じ履歴から発生していることなのだ。
毛穴には毛穴の理由がある。
シワには表情の履歴がある。
肌の色ムラには血流や日焼けや年齢がある。
髪の乱れには湿度や寝癖や手入れの癖がある。
顔の左右差には噛み癖や表情筋や生活がある。
細部が、それぞれバラバラに存在しているのではなく、ひとつの人生と矛盾なくつながっている。
だからリアルなのだと思う。
フェイクグリーンと本物の植物も同じだ。
最近のフェイクグリーンはよくできている。
葉の色も、質感も、葉脈も、それっぽい。
ぱっと見では、本物と見分けがつかないものもある。
でも、本物の植物は違う。
本物の植物は、その場所で生きている。
光を求めて、茎がぐにゃっと曲がる。
窓側だけ妙に伸びる。
日陰側はスカスカになる。
水が足りなかった時期の葉が小さくなる。
エアコンの風が当たる側だけ傷む。
一度枯れかけた枝が残る。
剪定された跡から、変な角度で新芽が出る。
それは、きれいな形ではない。
でも、その歪みには理由がある。
その場所で、その光で、その水で、その風で、その土で、その鉢で、生きてきた結果として、そうなっている。
フェイクグリーンは、「植物っぽさ」を再現している。
本物の植物は、「そこで生きた結果」をまとっている。
この違いは大きい。
人間の顔も、文章も、植物も、たぶん同じだ。
リアルさとは、表面の精度ではない。
履歴との整合性である。
AI生成のポストに私が食いつけなかったのは、情報が足りなかったからではない。
主張が弱かったからでもない。
癖が足りなかったからでもない。
そのポストが、人生の履歴から発生していなかったからだ。
ポストの力は、主張ではなくフィルターに宿る。
同じ「最近の若者はすぐ無理と言う」という内容でも、
人間が書くと、その人の傷、怒り、時代感覚、職場観、階級感、被害者意識が漏れる。
人が、エックスのポストに惹かれるのは、正しいからではない。
きれいに整理されているからでもない。
「なぜこの人は、ここで怒るのか」
「なぜこの話とこの話が接続されるのか」
「なぜ本人の中では、それが自然につながってしまっているのか」
そこに、その人固有のフィルターが見えるからだ。
生きているものは、環境に負けた跡と、負けなかった跡を同時に持っている。
本物の植物には、光に負けた跡と、光を求めて伸びた跡がある。
本物の人間には、社会に傷つけられた跡と、それでも生きてきた跡がある。
本物の文章には、怒りに飲まれた跡と、言葉にしようと踏ん張った跡がある。
だから、歪んでいるのに調和している。
AIは、整っている。
でも、空疎である。
その空疎さは、表面がきれいすぎるからだけではない。
表面の奥に、そこで生きた履歴が足りないからだ。
でも、少なくとも私は、AI生成の架空ポストよりも、米屋が急にアメリカの洗脳の話をしはじめるポストのほうに、どうしても食いついてしまう。
それは、その人の主張に賛成しているからではない。
そこに、人間が生きてしまった痕跡があるからだと思う。

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