今日は雑談から、ちょっと面白い発見がありました。
最近、「自己責任」や「陰謀論」という言葉に違和感がある理由を考えていたのですが、どうやら私は「対話を途中で終わらせる言葉」が苦手らしいのです。
「自己責任だ」
「常識。」
「それは陰謀論だね。」
みたいな。
その言葉自体が悪いと言いたいわけではありません。
でも、その一言で、そういう言葉が出されると、
「それ以上考えなくていいよ。」
「うるさい。」
「わかったから。」
「その話は終わり。」
という空気になってしまうことがあります。
私は、その先を考えたい。
「自己責任ではあるけれど、自己責任とは言い切れない部分だってある」
「自己責任性は何割で、非自己責任性は何割かな?」
そんなふうに、白黒ではなく、いくつかの可能性を並べて考えるのが好きなのだと気づきました。
さらに面白かったのは、自分の会話のクセです。
例えば、
「今日は蒸し暑いですね。」
と言われると、
「そうですか?(私は少し肌寒いと感じている)」
なんて返してしまうことがあります(笑)。
でも、多くの人は天気の議論をしたいわけじゃない。
「こんにちは。」
くらいの意味で話しかけている。
私は無意識に、「その発言は事実として正しいか?」を評価してしまうクセがあるようです。
ただ、不思議なのは、いつもそうではないこと。
ふざけるときは、ちゃんと冗談も言っている気がします。
でも、仕事モードでは、一言一句の意味まで何時間もかけて考えることもできる。
つまり、ちゃんとモードは切り替わる。
でも、疲れていると、その切り替えがうまくできないことにも気づきました。
仕事モードのまま、帰宅して、雑談に入ってしまったりする。
そこで思いついたのが、
「心理的ピントフリーズ」
という言葉。
加齢にともなって、目が近くにピントを合わせたまま戻りにくくなるように、
心や思考にも、同じように「ピント調節機能」があるのかもしれません。
社交モード。
分析モード。
創造モード。
でも、疲れてくると、そのピントが固まってしまう。
そんなイメージです。
そう考えると、自分はなにかの答えを知りたいというより、
「もし○○だったら?」
という仮説をいくつも作って、ひたすら考えることが好きなのかもしれません。
どこかにいる宇宙人の話も。
高次元の存在の話も。
陰謀論の話も。
制度設計の話も。
全部、世界中の人が誰も解ききれてはいない、大きな謎解きゲームみたいなもので。
レプティリアンが存在しようと、存在しまいと、明日出会うわけでもないわけで、
でも、だから、のんきに考えられるし、それが楽しい。
そして、今日もう一つ気づいたこと。
私が苦手なのは、「答え」ではなく、
思考を途中で終わらせることなのかもしれません。

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