最近、SNSで長友佑都選手の投稿を見かけた。
成長は快適な場所の外にある。
失敗を恐れず挑戦しよう。
後悔しない人生を生きよう。
という趣旨の内容だった。
最初は少し引っかかった。
なぜだろう。
しばらく考えてみた。
「成長は快適な場所の外にある」は事実かもしれない
冷静に読むと、この文章自体はそれほど過激ではない。
例えば、
- 筋トレをすると筋肉がつく
- 新しい土地へ行くと発見がある
- 初対面の人と話すと刺激がある
というのは、ある意味当たり前の話だ。
成長したいなら、今までと違うことをする必要がある。
これはおそらく事実だろう。
でも「成長すべき」とは書いていない
面白いことに、長友選手は
成長は快適な場所の外にある
とは言っているが、
人は成長すべきである
とは書いていない。
しかし多くの人は、
無意識に
成長は善である
だから挑戦すべきである
と補完して読んでしまう。
私も最初はそう読んでいた。
しかし改めて考えると、
成長そのものは価値中立だ。
経済も成長する。
人口も成長する。
癌細胞だって成長する。
成長は現象であって、善悪ではない。
「挑戦」は本当に善なのか
さらに考えてみる。
自己啓発本などでは、
挑戦しよう
という言葉がよく出てくる。
しかし、挑戦とは何だろう。
英語を勉強する。
資格を取る。
部署異動に手を挙げる。
これは挑戦だろう。
しかし、かなり成功確率が高い。
一方、
会社を辞めて起業する。
40歳からプロスポーツを目指す。
貯金ゼロで世界一周する。
こちらも挑戦だろう。
しかし成功確率は低い。
すると疑問が生まれる。
無謀と挑戦の境界線はどこにあるのか。
挑戦というより「最適化」ではないか
考えてみると、多くの人は挑戦していないのではない。
むしろ期待値を計算している。
高卒で日本語しか話せない人が、
いきなりMicrosoft本社やGoogle本社を受けたりはしない。
自分の学力や経験や環境を踏まえて、
もっとも成功確率が高そうな選択肢を探す。
これは挑戦というより、
最適化である。
私たちの人生の大半は、
実はこの最適化で構成されている。
長友選手もまた最適化している
さらに意地悪なことを考えてみる。
もし挑戦そのものに価値があるなら、
長友選手はなぜサッカーを選んだのだろう。
なぜピアニストではなかったのか。
なぜ数学者ではなかったのか。
なぜ宇宙飛行士ではなかったのか。
おそらく、
身体能力や環境や経験が、
サッカーに最も適していたからだ。
つまり長友選手も、
自分の資本が活かせる場所を選んでいる。
それは悪いことではない。
むしろ合理的だ。
しかしそれなら、
人生とは「何でも挑戦しろ」ではなく、
「自分の資本が活きる場所を見つけろ」という話になる。
メキシコ漁師の話
ここで有名なメキシコ漁師の寓話を思い出す。
商社マンは漁師にこう言う。
もっと働けば船を増やせる。
会社を作れる。
上場できる。
大金持ちになれる。
そして引退したら海辺でのんびり暮らせる。
すると漁師は言う。
それ、今やってるけど?
この寓話は、
成長を否定しているわけではない。
問いかけているのだ。
その成長は何のためなのか?
と。
人は本当に「挑戦不足」を後悔するのか
一方で、
人は死ぬ前に
もっと挑戦すればよかった
と後悔するとも言われる。
私は最近、
これは少し違うのではないかと思う。
本当に後悔するのは、
挑戦不足ではなく、
やりたかったことを先送りしたことではないだろうか。
会いたい人に会わなかった。
旅行しなかった。
絵を描かなかった。
告白しなかった。
引っ越さなかった。
つまり、
世界一になる挑戦ではなく、
人生の大きな石を後回しにしたこと。
その後悔なのではないか。
「べき」が圧になる瞬間
結局、私が最も引っかかったのはここだった。
私は挑戦したい。
↓
いい。
私は挑戦に価値を感じる。
↓
いい。
あなたも挑戦すべきだ。
↓
急に圧になる。
これはヴィーガンにも似ている。
私は肉を食べない。
↓
いい。
肉を食べないことに価値を感じる。
↓
いい。
あなたも肉を食べるべきではない。
↓
なんでやねん。
人間は、自分の価値観を普遍法則にした瞬間に、他人を苦しめ始める。
長友選手の言葉を読み直してみる
ここまで考えてから、改めて投稿を読む。
すると、
実はそれほど強いことは言っていない。
成長したいなら快適圏の外へ。
失敗を恐れなくていい。
後悔を減らそう。
それだけだ。
問題は文章そのものではなく、
私たちがそこに
「成長は善である」
「挑戦すべきである」
という価値観を読み込んでしまうことなのかもしれない。
最後に
成長は善でも悪でもない。
挑戦も善でも悪でもない。
それらは手段であり、現象である。
大切なのは、
自分が本当に何を叶えたいのか。
そして、
惰性や恐れだけで、
その「叶」を先送りしていないか。
長友選手の言葉も、
メキシコ漁師の寓話も、
結局は同じ問いに行き着くのかもしれない。
成長そのものが目的になっていないか。
そして、
本当に大切なことを後回しにしていないか。
「長友が言った」が持つ力
ところで、ここまで考えておいて何だが、実は私はこの文章が本当に長友佑都選手本人の発言なのか確認していない。
私が見たのは、
「長友が言っていました」
と紹介している第三者のスレッズ投稿のスクリーンショットである。
つまり、
長友本人
↓
(不明)
↓
投稿者
↓
スクリーンショット
↓
私
という経路で届いた情報だ。
だから厳密には、
長友が言った
ではなく、
長友が言ったとされる言葉
について考えていることになる。
なぜ「長友が言った」が必要なのか
ここで面白いことに気づく。
仮にこの文章を、
無名の人が書いたらどうだろう。
成長は快適な場所の外にある。
新しいことに挑戦しよう。
失敗は恥ではない。
おそらく、
「ふーん」
で終わる人も多いだろう。
ところが、
あの長友佑都が言った
となると話が変わる。
日本代表。
ワールドカップ。
インテル。
成功者。
そうしたイメージが文章に付与される。
文章の価値そのものが変わったわけではない。
しかし、人々の注目度は大きく変わる。
権威は内容を補強する
投稿者である「toshimitsu1965」氏が、
長友選手の言葉を引用する資格があるのか、
本人とどのような関係なのか、
私には分からない。
しかし少なくとも、
長友が言っていました
という一文は、
耳目を集める効果を持つ。
これはある意味で、
権威を借りる行為でもある。
もちろん悪い意味ではない。
新聞も本も講演も、
誰かの言葉を引用しながら成り立っている。
しかし、
私たちはしばしば、
言葉そのものではなく、
誰が言ったかに反応している。
私が考えていたのは、長友ではなく「成功者」だった
実際、この文章を読んで私が反応したのは、
長友本人というより、
「成功者が人生論を語る」という構図だった。
もし近所のおじさんが同じことを言っていたら、
ここまで考えなかったかもしれない。
しかし、
長友という存在がそこにいることで、
比較が生まれる。
世界で活躍した人
日本代表
莫大な経験資本
身体資本
人脈資本
そうしたものが背景に見えてしまう。
そして私は、
言葉の内容だけではなく、
その発言が置かれている文脈ごと考え始めた。
「誰が言ったか」を外して読む
だから今回、
私は何度も
長友という名前を外して読んでみる
という作業をした。
すると、
文章はかなり穏当な内容になる。
成長したいなら新しいことをやってみよう。
失敗してもいい。
後悔を減らそう。
それだけである。
しかし、
そこに
長友が言った
という情報が加わると、
人生訓になり、
成功哲学になり、
時には圧にもなる。
そして今回の考察を通じて感じたのは、
私が考えていたのは、
長友佑都という一人のサッカー選手ではなく、
「成功者の言葉がなぜ説得力を持つのか」
ということだったのかもしれない。

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