星野真里さんが『24時間テレビ』のチャリティーランナーに決まった、という記事を読んだ。
娘さんが先天性ミオパチーという難病を抱えていて、電動車いすや人工呼吸器を使いながら暮らしているという。星野さんは、すべての子どもたちが分けられることなく、自分の居場所を選べる世の中になってほしい、と語っていた。
その願い自体は、とても大切なものだと思う。
ただ、そこで出てくる「もっと優しい世の中になるきっかけに」という言葉に、少し引っかかった。
優しい世の中とは、具体的に何なのだろう。
医療的ケア児が地域の学校に通えることなのか。親が付き添わなくても通学できることなのか。放課後の居場所があることなのか。移動支援があることなのか。災害時にも命が守られることなのか。
たぶん、全部そうなのだと思う。
でも、それを実現するには、人手も、予算も、制度も、責任分担も必要になる。看護師、教員、福祉職、自治体職員、交通、学校施設、家族支援。どこかの誰かの善意だけでは回らない。
今の日本は、すでに社会保障費が巨大化し、現役世代の負担感も強い。税金や社会保険料は重く、手取りは増えず、医療・年金・介護への不安も大きい。
そういう時代に、急に「もっと優しい世の中について考えてください」と言われると、少し戸惑う。
考えること自体は大事だ。
でも、考えるための材料が足りない。
何が不足しているのか。
誰が困っているのか。
どの制度が詰まっているのか。
追加で何が必要なのか。
その負担は誰が担うのか。
代わりに何を削るのか。
そこが見えないまま「優しさ」を求められると、少し道徳的な圧のようにも感じる。
『24時間テレビ』のような番組は、難病や障害のある人、支える家族、涙、努力、ゴールといった物語を通じて、視聴者に感動を届ける。しかし、その感動が、本人たちの生活や制度課題を本当に見えるようにしているのか、それとも「かわいそうだけど頑張っている人」を見て、視聴者が一晩だけ自分の罪悪感を処理する装置になっていないか。
そこは、少し慎重に考えたい。
障害や難病があることは「不運」かもしれない。
でも、それがそのまま「不幸」かどうかは、本人にしか分からない。
外から見て「かわいそう」と決めつけることも、「頑張っていて感動する」と消費することも、どちらも本人の主体性を奪ってしまうことがある。
本当に必要なのは、かわいそうな姿を見せて「考えろ」と迫ることではなく、本人が何を望み、何に困り、社会のどこを変えれば選択肢が増えるのかを、具体的に示すことなのだと思う。
募金にも意味はある。
ただ、年間百兆円を超える社会保障費が動いている国で、十数億円の募金を集めることだけが、本当に有効な手段なのかという疑問もある。
むしろ必要なのは、優しさの物語ではなく、優しさの会計なのかもしれない。
この支援には、いくらかかる。
誰の人手が必要になる。
どのサービスを見直す必要がある。
どの負担を増やし、どの負担を減らすのか。
それでも社会として選ぶ価値があるのか。
今の日本は、誰かに優しくするために、別のどこかに厳しくせざるを得ない局面に入っている。都市も、交通も、医療も、福祉も、すべてを今までどおり維持することは難しくなっている。
だからこそ、「もっと優しい世の中に」という言葉だけでは足りない。
優しさを語るなら、その優しさを誰の財布で、誰の労働で、どの制度で実現するのかまで語る必要がある。
感動ではなく、設計。
募金ではなく、配分。
善意ではなく、持続可能性。
そんなことを、この記事を読みながら考えた。

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