ひとつの口ではなく、複数の口がそろうこと。
願いが、ただの独白ではなく、誰かと重なり、現実に届き始めること。
けれど、そこからさらに考えてみると、ひとつ大事な問題が残る。
それは、口の数が増えれば増えるほど、本当に願いは叶いやすくなるのか、ということだ。
十の口がそろえば、願いは力を持つ。
では、それが百の口になれば、十倍叶いやすくなるのだろうか。
たぶん、そうではない。
むしろ、口が増えれば増えるほど、声はばらける。
同じような願いを持っているように見えても、よく聞けば一人ひとり少しずつ違う。
安全に暮らしたい。
自由に動きたい。
楽しく働きたい。
自分らしく生きたい。
誰かに認められたい。
不安をなくしたい。
苦しい仕事はしたくない。
でも社会にはちゃんと回っていてほしい。
どれも、気持ちとしては分かる。
しかし、それぞれの願いが、何の調整もなく同時に発せられたとき、それはそのまま社会をよくする力になるのだろうか。
音楽で考えると分かりやすい。
音がたくさんあれば、音楽になるわけではない。
一人ひとりが好きな音を、好きなタイミングで、好きな大きさで鳴らしたら、それは豊かな表現ではなく、ただの雑音になる。
音楽になるためには、旋律がいる。
拍がいる。
間がいる。
調性がいる。
誰かが強く鳴らす瞬間と、誰かが静かに支える瞬間がいる。
つまり、音が音楽になるためには、自由だけでは足りない。
自由を殺さないための、最低限の秩序が必要になる。
これは、社会も同じだと思う。
人々の願いが増えること自体は、悪いことではない。
むしろ、声が出ることは大切だ。
誰かが困っている。
誰かが苦しい。
誰かが変えてほしいと思っている。
その声がなければ、社会は自分の歪みに気づけない。
けれど、声は、そのまま増やせばよいものではない。
声が増えたときに必要なのは、さらに大きな声ではない。
必要なのは、方向であり、整理であり、ルールであり、役割であり、現実に落とすための手順である。
私は以前、Vector=Love という言葉を使って、こんなことを考えていた。
「あい」とは、単なる感情としての愛ではない。
万物がそっと向かっていく、ひとつの点のようなもの。
ばらばらだった揺らぎが、ある方向を得て、美へと変わっていくこと。
「あ」は、始まりの声に近い。
口が開き、何かが生まれる。
まだ意味になる前の、最初の揺らぎである。
そこに「い」が入る。
意識の意。
意味の意。
方向の意。
「あ」が「い」を得ると、「あい」になる。
ただ開かれた声が、どこかへ向かい始める。
この感覚は、社会にも当てはまると思う。
人々の声は、最初は「あ」である。
苦しい。
嫌だ。
こうしたい。
こうなってほしい。
助けてほしい。
もっと自由に生きたい。
それは、とても大事な始まりだ。
しかし、「あ」だけが増えても、世界は整わない。
ただ口が増え、ただ声が増え、ただ要求が増えるだけなら、それはやがて雑音になる。
必要なのは、「い」である。
意識。
意味。
方向。
他者と共有できる言葉。
現実の中で扱える形。
声が方向を得るとき、願いは少しだけ社会に近づく。
声が意味を持つとき、要求は要望になる。
要望が測られ、組み立てられ、役割と手順を持つとき、それは計画になる。
そして、計画が現実の行為に戻されたとき、ようやく何かが叶い始める。
ここで、いわゆる「意識が現実を作る」という言葉について考えたくなる。
この言葉には、半分くらい本当のことが含まれていると思う。
たしかに、意識がなければ、現実は変わらない。
誰かが「おかしい」と思わなければ、制度は変わらない。
誰かが「こうしたい」と願わなければ、新しい事業も、新しい関係も、新しい暮らし方も生まれない。
意識は、現実を変える始まりである。
これはたぶん、間違っていない。
けれど、意識だけで現実が作られるわけではない。
意識は、言葉にならなければならない。
言葉は、他者と共有されなければならない。
共有された言葉は、優先順位を持たなければならない。
優先順位は、役割分担と責任に結びつかなければならない。
そして最後には、誰かが実際に手を動かさなければならない。
道路を直す人がいる。
水道を管理する人がいる。
ごみを集める人がいる。
バスを運転する人がいる。
介護をする人がいる。
書類を整える人がいる。
予算を組む人がいる。
文句を受け止める人がいる。
社会は、誰かのワクワクだけでは動かない。
誰かの祈りだけでも動かない。
誰かの好きなことだけでも動かない。
むしろ、みんなが「自分の好きなことだけ」を始めたとき、社会は調和するどころか、分解していく可能性がある。
それぞれの音が、自分の美しさだけを主張する。
それぞれの声が、自分の願いだけを通そうとする。
それぞれの意識が、自分の現実だけを作ろうとする。
そこに共通の拍も、調性も、責任も、手順もなければ、それは音楽ではなくなる。
美しい宇宙的調和ではなく、ただの混線になる。
だから、社会にルールが必要なのは、人間が未熟だからだけではない。
複数の願いが同時に存在する以上、ルールは必要になる。
複数の自由が同じ場所に存在する以上、調整は必要になる。
複数の「叶えたい」が衝突する以上、計画は必要になる。
ルールとは、自由を殺すためのものではない。
本来は、自由が互いを壊さないためのものだ。
計画とは、願いを冷たく処理するためのものではない。
本来は、願いを現実に届く形へ整えるためのものだ。
制度とは、生命を型にはめるためだけのものではない。
本来は、ばらばらの声を、社会の中で扱えるようにするための器である。
もちろん、悪いルールもある。
人を黙らせるための制度もある。
既得権益を守るためだけの計画もある。
だから、ルールや制度を無条件に肯定する必要はない。
けれど、だからといって、ルールそのものを否定してしまうと、残るのは「声の強い人」の世界になってしまう。
大きく叫べる人。
何度でも言える人。
感情をぶつけ続けられる人。
場を支配できる人。
そういう人の願いだけが、現実を押し曲げていく。
「脱ピラミッド」は、「調和」ではない。
それは、「意識が現実を作る」のではなく、「圧が現実を歪める」に近い。
だから、私は「やりたいようにやればいい」という言葉に、どこか危うさを感じる。
一人で生きているなら、それでもいいのかもしれない。
けれど、社会には他者がいる。
他者の身体がある。
他者の時間がある。
他者の疲労がある。
他者の生活がある。
自分のワクワクが、誰かの負担になることもある。
自分の自由が、誰かの不自由になることもある。
自分の願いが、誰かの仕事として押しつけられることもある。
だから必要なのは、願いを消すことではない。
願いを、他者のいる世界に置ける形へ変えることだ。
声を、言葉にする。
言葉を、計画にする。
計画を、行為にする。
行為を、現実の変化にする。
そして、その変化が本当に誰かを楽にしたのか、もう一度、身体で確かめる。
この往復がなければ、願いは叶わない。
「意識が現実を作る」という言葉を、本当に社会の中で言うなら、そこには必ず続きが必要だと思う。
意識が現実を作る。
ただし、意識が言葉になり、他者と調整され、ルールを持ち、役割を引き受け、実際の行為として反復されたときに限る。
そうでなければ、意識は現実を作るのではなく、ただ現実に向かって叫んでいるだけになる。
音が、音楽になるためには旋律がいる。
声が、社会を動かすためには言葉がいる。
願いが、叶うためには計画がいる。
自由が、他者と共に生きるためにはルールがいる。
そして、ルールとは本来、あいの反対ではない。
ばらばらの「あ」が、互いを傷つけず、ひとつの方向へ歩み寄るための「い」。
声が雑音にならず、旋律になるための見えない骨格。
それが、よいルールであり、よい計画なのだと思う。
声は大切だ。
願いも大切だ。
ワクワクも、たぶん大切だ。
けれど、それだけでは世界は叶わない。
声が方向を得ること。
願いが他者に届く言葉になること。
言葉が計画となり、計画が現実へ戻ること。
そのとき初めて、ばらばらの音は、音楽になる。
そして、ただの願いは、ほんの少しだけ、世界の形を変え始める。

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