第9回 花を語るなら、根を見なければならない
ここまで、私は「ワクワク」「魂」「お金のない世界」「脱ピラミッド」「必要だけれどワクワクしにくい労働」について考えてきた。
そのすべてを貫く比喩があるとすれば、それは植物である。
花。
根。
幹。
枝。
土壌。
水。
光。
手入れ。
オンクリ的な思想や、雑栗わかる氏的な語りが魅力的なのは、花を語るからだと思う。
ワクワク。
好きなこと。
自己表現。
個性。
創作。
自然とのつながり。
仲間との循環。
お金ではない価値。
自分軸。
魂の声。
それらは、たしかに花である。
色がある。
香りがある。
人を引きつける。
見ているだけで、心が少し明るくなる。
「自分もこんなふうに咲いていいのかもしれない」と思わせてくれる。
会社や学校や世間の中で、自分の感覚を押し殺してきた人にとって、花の言葉は救いになる。
「あなたも咲いていい」
「あなたの色でいい」
「あなたのワクワクを信じていい」
「自分だけの花を咲かせていい」
そう言われて、涙が出る人もいるだろう。
それは、分かる。
私は花を否定したいのではない。
むしろ、人間には花が必要である。
食べるためだけに生きるのではない。
働くためだけに生きるのではない。
税を納め、家賃を払い、書類を処理し、老後に備えるためだけに生きるのではない。
人は、咲きたいのだと思う。
自分の色を出したい。
自分の好きなものを形にしたい。
誰かに見てもらいたい。
自分が生きている意味を、何らかの形で表したい。
その意味で、花は大切である。
しかし、花だけを見ていると、見えなくなるものがある。
花は、空中に浮かんで咲いているわけではない。
根がある。
土がある。
水がある。
光がある。
微生物がいる。
季節がある。
幹があり、枝があり、葉がある。
ときには剪定する人がいる。
病害虫を防ぐ人がいる。
倒れないよう支柱を立てる人がいる。
花だけを切り取れば、美しい。
しかし、花だけでは生きられない。
社会も同じである。
自己表現、創作、スピリチュアル、自然派マルシェ、オンラインサロン、ワクワクする商品、好きなことで生きる働き方。
それらは、現代社会に咲いた花である。
けれど、その下には根がある。
水道。
下水。
道路。
電気。
ガス。
通信。
物流。
医療。
消防。
警察。
行政。
教育。
法制度。
税。
金融。
農業。
廃棄物処理。
保守点検。
契約。
苦情対応。
災害対応。
公共交通。
これらは、花ではない。
目立たない。
映えない。
感動的に語られにくい。
SNSで拡散されにくい。
「これこそ私のワクワクです」と言うには、あまりに地味で、面倒で、しんどい部分が多い。
けれど、それらがなければ、花は咲かない。
スマホで「ワクワクに従おう」と発信できるのは、通信網があるからである。
オンラインサロンが成立するのは、決済システムがあるからである。
ハンドメイド作品を売れるのは、物流があるからである。
自然派のお菓子を作れるのは、材料の生産、加工、流通、衛生制度、包装資材があるからである。
地方移住を語れるのは、道路があり、車があり、病院があり、行政サービスがあり、電気と水道があるからである。
キャンピングカーで暮らせるのは、車両を作る産業、燃料、道路、整備工場、保険、登録制度、交通ルールがあるからである。
花は自由に見える。
しかし、その自由は、根の上にある。
ここを見ないと、思想は軽くなる。
私は、スピリチュアル系の言葉にときどき感じる違和感を、ここに見ている。
目に見えないものを大切にしよう。
波動を感じよう。
エネルギーを整えよう。
植物の力に感謝しよう。
宇宙の流れに乗ろう。
そう言うこと自体は悪くない。
しかし、目に見えないエネルギーを見るなら、目に見えない労働も見なければならないのではないか。
たとえば、街路樹である。
街路樹を見て、「植物のエネルギー」「自然の癒やし」「宇宙の循環」を感じることはできる。
木は美しい。
葉は光を受け、風に揺れる。
夏には日陰を作り、秋には色づき、都市の硬い風景をやわらげる。
しかし、その街路樹は、ただ自然にそこに生えているわけではない。
道路管理者が計画する。
予算を組む。
植木業者が苗を育てる。
適切な樹種を選ぶ。
道路空間に植える。
根が歩道を持ち上げないよう管理する。
枝が標識や信号を隠さないよう剪定する。
落ち葉を片付ける。
害虫に対応する。
台風で倒れないよう点検する。
苦情が来れば対応する。
必要であれば伐採し、植え替える。
つまり、都市の自然は、人の手で維持された自然である。
人の手を抜けば、すぐに雑草だらけになる。
枝は伸び放題になる。
落ち葉は側溝を詰まらせる。
虫が増える。
根上がりで歩道は凸凹になる。
見通しが悪くなり、交通事故のリスクも出る。
倒木すれば、人の命にも関わる。
それでも、きれいに整えられた街路樹だけを見て、
「自然って素晴らしい」
「植物が邪気を吸ってくれる」
「宇宙のエネルギーを感じる」
と言うことはできる。
しかし、そのとき、剪定した人の手は見えているだろうか。
落ち葉を片付けた人の腰は見えているだろうか。
苦情対応した職員の疲れは見えているだろうか。
予算を組み、委託契約をし、台風前に点検した人々の存在は見えているだろうか。
植物のエネルギーを語るなら、植木屋のエネルギーも見なければならない。
自然の癒やしを語るなら、その自然を人間の生活圏の中で維持している制度と労働も見なければならない。
私は、そこを飛ばしてしまう自然観に、強い違和感がある。
それは、「自然」を見ているようで、実は「人の手が入った後の、きれいな自然」だけを見ているのではないか。
同じことは、市役所や行政に対する見方にも言える。
スピリチュアル系や脱ピラミッド系の語りでは、市役所や行政はしばしば雑に扱われる。
市役所の職員は、住民票の窓口くらい。
奥の方でサボっている。
税金の無駄遣いばかり。
制度は人を縛るもの。
行政はピラミッド社会の一部。
本当の自由は、そこから離れたところにある。
こうした見方は、分かりやすい。
市民から見える行政は、たしかに窓口の一場面である。
書類を出す。
待たされる。
説明が分かりづらい。
融通が利かない。
税金を取られる。
規則ばかり言われる。
不満が出るのは当然である。
しかし、行政の仕事は、窓口の向こう側に無数に広がっている。
システムを保守する。
法改正に対応する。
個人情報を守る。
予算を編成する。
契約を管理する。
監査を受ける。
国や県と調整する。
道路を管理する。
河川や水路を管理する。
ごみ処理を支える。
防災計画を作る。
災害時に避難所を開く。
福祉サービスを調整する。
保育、教育、住宅、交通、環境、都市計画、税、戸籍、住民記録を維持する。
それらは、普段はほとんど見えない。
うまく回っているときほど、見えない。
水が出ること。
ごみが回収されること。
道路が通れること。
住民票が発行されること。
災害時に避難所が開くこと。
火事になれば消防が来ること。
犯罪があれば警察が来ること。
感染症が広がれば保健所や医療が動くこと。
これらは、機能している限り、当たり前に見える。
根は、見えないほどよい。
根が見えるときは、たいてい何かが壊れたときである。
水道管が破裂したとき。
道路が陥没したとき。
ごみが回収されなくなったとき。
停電したとき。
災害で避難所が必要になったとき。
医療が逼迫したとき。
行政手続きが止まったとき。
公共交通がなくなったとき。
そのとき初めて、人は根の存在に気づく。
しかし、本当は、何も起きていないように見える日常の中で、ずっと誰かが根を支えている。
スピリチュアルが「見えないものを大切にしよう」と言うなら、私はそこまで見たい。
見えない波動。
見えないエネルギー。
見えない宇宙の流れ。
それらを語るなら、同じくらい、
見えない点検。
見えない保守。
見えない清掃。
見えない調整。
見えない税務。
見えない契約。
見えない現場労働。
見えない行政事務。
見えない夜勤。
見えない災害対応。
それらも見なければならない。
むしろ、私にとっては、そちらの方がずっと具体的な神秘である。
毎朝、ごみが回収される。
蛇口から水が出る。
下水が流れる。
道路が通れる。
バスが走る。
消防が待機している。
病院が開いている。
学校が開く。
住民票が取れる。
税が集められ、予算になり、委託になり、事業になり、サービスになる。
これは、よく考えると、とんでもない奇跡である。
宇宙のエネルギーという言葉よりも、何万人もの人間が、顔も知らない他者のために、毎日仕事をしているという事実の方が、私にはよほど不思議に思えることがある。
もちろん、その仕事は美しい動機だけで行われているわけではない。
給料のため。
生活のため。
職務だから。
法律で決まっているから。
責任があるから。
誰かがやらなければならないから。
そういう現実的な理由で行われている。
しかし、それでも、社会はそれによって支えられている。
人間は完全に善良だから社会が回っているのではない。
制度、賃金、責任、専門性、規則、契約、公共性が組み合わさることで、見知らぬ人同士が支え合えるようになっている。
そこに、私は一種の神秘を見る。
神秘とは、必ずしも宇宙の彼方や高次元にだけあるわけではない。
下水処理場にもある。
夜間の道路補修にもある。
保健所の記録にもある。
税務課の封筒にもある。
ごみ収集車の朝のルートにもある。
災害備蓄倉庫にもある。
街路樹の剪定にもある。
公共交通の時刻表にもある。
それらは、派手ではない。
花ではない。
けれど、根である。
私は、この根を見ないスピリチュアルに、どうしても苛立ってしまう。
花を語るな、ということではない。
花は大事である。
人間には、歌も、祈りも、創作も、自己表現も、ワクワクも必要である。
制度やインフラだけで人は生きられない。
根だけあっても、花がなければ息苦しい。
しかし、花だけを語り、根を馬鹿にするなら、それは違う。
「市役所は無駄」
「行政は古い」
「お金は悪」
「会社はピラミッド」
「インフラは当たり前」
「自分は宇宙の流れに乗って、ワクワクで生きる」
そう語るなら、私は問いたい。
そのワクワクは、誰の根の上に咲いているのか。
あなたが発信するスマホは、誰が作ったのか。
あなたの動画を届ける通信網は、誰が保守しているのか。
あなたの自然派商品を届ける物流は、誰が担っているのか。
あなたが住む土地の治安は、誰が守っているのか。
あなたが病気になったときの医療は、誰が維持しているのか。
あなたの街の道路や水道やごみ処理は、誰が支えているのか。
あなたの花が咲く足場は、誰が整えているのか。
この問いを持たない思想は、どれだけ優しく見えても、どこかで現実の労働を透明化している。
そして、現実の労働を透明化する思想は、やがて人を軽んじる。
根を軽んじれば、根を担う人々を軽んじることになる。
根を担う人々を軽んじれば、社会の足場は弱くなる。
足場が弱くなれば、花も咲けなくなる。
だから私は、花と根を同時に見たい。
ワクワクを否定しない。
しかし、ワクワクを支える労働を見る。
自然を愛する。
しかし、都市の自然を維持する手入れを見る。
お金を相対化する。
しかし、貨幣が担っている信用技術を見る。
スピリチュアルを祈りとして尊重する。
しかし、それが制度や責任を消す言葉になることを警戒する。
これが、私にとっての世界樹の見方である。
社会は一本の木のようなものだと思う。
地球という土壌がある。
水、空気、鉱物、生態系、気候がある。
そこに、人間社会の根が張る。
インフラ、農業、物流、エネルギー、下水、道路、医療、行政、制度、税、教育。
その上に幹が立つ。
法、公共性、企業、学校、地域、共同体、家庭。
さらに枝が伸びる。
人間関係、文化、商い、創作、遊び、信仰。
そして花が咲く。
ワクワク、自己表現、芸術、思想、祈り、愛。
花は美しい。
しかし、花だけが木ではない。
根だけでも木ではない。
幹だけでも木ではない。
すべてがつながっている。
だから、脱ピラミッドというより、私は世界樹を見たい。
上下の支配構造をただ嫌うのではなく、何が根で、何が幹で、何が枝で、何が花なのかを見たい。
どこが腐っているのか。
どこに水が足りないのか。
どの枝が伸びすぎているのか。
どの根が踏みつけられているのか。
どの花だけが称賛されているのか。
そのように見れば、社会は単純な敵ではなくなる。
行政も、企業も、貨幣も、インフラも、労働も、共同体も、自然も、スピリチュアルも、それぞれ役割を持つ。
問題は、どれか一つを絶対化することである。
お金だけを絶対化すれば、人間は痩せる。
ワクワクだけを絶対化すれば、根が見えなくなる。
行政だけを絶対化すれば、個人の花は枯れる。
自然だけを絶対化すれば、都市の生活は支えられない。
スピリチュアルだけを絶対化すれば、制度と責任が消える。
必要なのは、どれか一つへの回帰ではない。
根と花を同時に見ること。
制度と祈りを同時に持つこと。
貨幣と贈与を組み合わせること。
公共性と自己表現を対立させないこと。
自然とインフラを切り離さないこと。
私は、そこに向かいたい。
ワクワクは、誰の足場の上に咲いているのか。
この問いは、批判のためだけの問いではない。
本当にワクワクを守るための問いである。
花を長く咲かせたいなら、根を守らなければならない。
自由を広げたいなら、足場を整えなければならない。
自己表現を尊重したいなら、それを可能にする制度や労働にも敬意を払わなければならない。
根を見ない花は、やがて枯れる。
だからこそ、花を語るなら、根を見なければならない。

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