第8回 ワクワクしにくい労働を、誰が担うのか
前回、私は「脱ピラミッド」という言葉について考えた。
会社を辞めること。
雇用労働から離れること。
情報発信やオンラインサロンや自己表現で収入を得ること。
自然に近い暮らしをすること。
自分の好きなことを商品にすること。
それらは、個人の人生戦略としては十分に意味がある。
心身を壊す職場から逃げることは必要である。
自分に合わない働き方を見直すことも大切である。
会社や組織に依存しない収入源を作ることも、現代では重要な選択肢である。
しかし、それを「脱ピラミッド」と呼ぶなら、私は問いたくなる。
本当にピラミッドから降りたのか。
それとも、ピラミッドの中で、より上澄みの場所へ移動しただけなのか。
自己表現、思想、スピリチュアル、オンラインサロン、ハンドメイド、自然派商品。
それらは、たしかに花である。
人を癒やすこともある。
生きる喜びを取り戻させることもある。
けれど、その花が咲く足元では、今も誰かが社会を支えている。
水を出す人がいる。
下水を処理する人がいる。
道路を直す人がいる。
ごみを集める人がいる。
病院で夜勤する人がいる。
介護施設で排泄介助をする人がいる。
火事の現場へ向かう人がいる。
災害現場で泥をかぶる人がいる。
物流を担う人がいる。
工場で部品を作る人がいる。
税や保険料を徴収する人がいる。
苦情対応をする人がいる。
嫌われる説明をする人がいる。
その人たちがいるから、私たちは水を飲める。
電気を使える。
スマホで発信できる。
オンラインサロンに参加できる。
好きなことについて語れる。
ワクワクを探す時間を持てる。
つまり、誰かのワクワクは、しばしば誰かのワクワクしにくい労働の上に咲いている。
この現実を見ないまま、「みんなワクワクに従えばいい」と言えるのだろうか。
ここに、ワクワク論の最大の未解決問題がある。
社会は、やりたいことだけでは回らない。
もちろん、世の中には、一般に大変そうに見える仕事を心から好きでやっている人もいる。
自衛隊に使命感を持って入る人がいる。
消防士として命をかけることに誇りを持つ人がいる。
介護を天職のように感じる人がいる。
解体現場や土木作業に身体性と技能の喜びを見出す人がいる。
ごみ収集や清掃の仕事に、地域を支える誇りを持っている人もいる。
だから、危険な仕事や汚れる仕事や大変な仕事を、単純に「誰もやりたくない仕事」と言い切るのは失礼である。
そこには、使命感、誇り、技能、仲間意識、地域性、身体の適性、責任感がある。
しかし、それだけで社会が回っているわけではないことも、また事実である。
多くの仕事は、「やりたいから」だけで選ばれているわけではない。
生活のため。
学歴や資格の制約。
家庭の事情。
地域にある仕事の選択肢。
安定収入が必要だから。
ほかに選べる道が少ないから。
若い頃に十分な教育機会がなかったから。
家族を養わなければならないから。
とにかく住む場所と食べるものを確保しなければならないから。
こうした現実がある。
人は、完全に自由な選択の中から仕事を選んでいるわけではない。
選べる範囲の中で、生活を成り立たせるために働いている。
ここで、かなり言いにくいことを言えば、社会の分業は、ある程度「抑圧」によって成り立っている面がある。
もちろん、この言い方は雑である。
そして危険でもある。
自衛隊員や介護職員や解体業者や清掃員や現場労働者を、「抑圧されているからその仕事をしている」とだけ見るのは間違いである。
そこには、その人なりの誇りや意思や能力がある。
しかし同時に、もし全員が十分な教育、十分な資産、十分な安全網、十分な選択肢、十分な文化的経験を持っていたら、今と同じ人数が、今と同じ条件で、危険で、きつく、汚れやすく、精神的負荷の高い仕事に就くだろうか。
おそらく、そうではない。
自衛隊に入り、自分の命をかける可能性があり、場合によっては人を殺す可能性のある活動に関わりたい人は、ゼロではないだろう。
使命感を持つ人は必ずいる。
しかし、志願者は今より大きく減るかもしれない。
介護もそうである。
人の身体を支える尊い仕事である。
しかし、低賃金、重労働、感染リスク、腰痛、夜勤、慢性的な人手不足、感情労働を考えれば、「他に同じ収入でもっと楽な選択肢があるなら、そちらを選びたい」と思う人がいても不思議ではない。
解体業もそうである。
泥や粉じんや騒音や危険と隣り合わせの現場で働く。
誰かがやらなければ、老朽化した建物は残り続ける。
災害時にも撤去作業は必要になる。
しかし、その仕事を担う人が十分にいるのは、純粋なワクワクだけでは説明できない。
ごみ収集も、下水処理も、道路維持も、夜間の漏水対応も、災害復旧も同じである。
社会には、必要だが、一般的にはワクワクしにくい仕事がある。
では、全員がワクワクに従ったら、それらの仕事はどうなるのか。
これは、ワクワク論が避けて通れない問いである。
もし、ある人が「目覚めた」とする。
これまで介護職として働いていた。
けれど、本当はもうつらかった。
腰も痛い。
給料も低い。
夜勤もきつい。
利用者や家族との関係にも疲れた。
そこで、「私はワクワクに従う」と決めて、介護職を辞め、発信者やハンドメイド作家やスピリチュアルカウンセラーになったとする。
それ自体は、その人の人生としては尊重されるべきである。
壊れる前に逃げることは大切である。
自分に合う仕事へ移ることも大切である。
介護職を辞めたことを責めることはできない。
しかし、その人が抜けた介護の現場はどうなるのか。
高齢者は消えない。
認知症の人は消えない。
排泄介助は消えない。
食事介助は消えない。
夜間の見守りは消えない。
看取りは消えない。
その仕事は、誰かが担う。
同じように、解体現場を離れる人が増えても、古い建物は消えない。
道路維持の仕事を離れる人が増えても、道路は傷む。
下水処理の仕事を離れる人が増えても、汚水は流れ続ける。
ごみ収集の仕事を離れる人が増えても、ごみは毎日出る。
自衛隊や消防や警察を離れる人が増えても、災害や火事や犯罪や国防の問題は残る。
つまり、個人がその仕事から解放されても、社会の側の必要労働は消えない。
ここに、個人の解放論と社会論のズレがある。
「あなたが嫌なら辞めてもいい」
これは、個人に対しては正しい場合がある。
しかし、
「みんなが嫌なら辞めればいい」
となったとき、社会はどうなるのか。
そこに答えなければならない。
必要な労働がある。
しかし、多くの人にとってはワクワクしにくい。
では、誰がそれを担うのか。
考えられる道はいくつかある。
一つ目は、賃金や待遇を上げることである。
危険な仕事、汚れる仕事、精神的負荷の高い仕事、夜間や災害時に社会を支える仕事ほど、きちんと報われるようにする。
介護、保育、清掃、下水、建設、物流、消防、災害対応、現場労働。
そうした仕事に、社会がもっと敬意と報酬を与える。
これは、かなり正攻法である。
ただし、そのためには、お金が必要である。
税が必要である。
料金が必要である。
負担の議論が必要である。
つまり、貨幣と制度から逃げることはできない。
二つ目は、機械化・自動化することである。
人間がやらなくてよい作業は、できるだけ技術に任せる。
危険な現場にロボットを入れる。
重いものを持ち上げる作業を機械化する。
介護補助機器を導入する。
清掃や点検を自動化する。
AIやセンサーで異常を検知する。
これも重要である。
しかし、機械化には研究開発、投資、電力、部品供給、メンテナンス、専門技術がいる。
それもまた、ピラミッド社会の成果物である。
三つ目は、社会全体でローテーションすることである。
誰か特定の階層や弱い立場の人に押し付けるのではなく、必要な労働を共同体全体で分担する。
掃除、介護、地域の見守り、災害対応、農作業、公共空間の維持。
それらを、可能な範囲で多くの人が分かち合う。
これは理想としては美しい。
しかし、現実には、専門性、継続性、責任、危険、身体能力、時間、心理的負担の問題がある。
誰でも少しずつ担えばよい、というだけでは回らない仕事も多い。
四つ目は、外国人や弱い立場の人に押し付けることである。
これは、現実にはしばしば起きる。
自国の人がやりたがらない仕事を、外国人労働者に担わせる。
低賃金でも断れない人に担わせる。
学歴や資産や保証人を持たない人に担わせる。
社会的に発言力の弱い人に担わせる。
これは、既存社会でもよくある構造である。
しかし、もし「愛」や「ワンネス」や「脱ピラミッド」を語りながら、この構造を温存するなら、それはかなり矛盾している。
目覚めた人はワクワクへ。
目覚めていない人、あるいは選択肢のない人は下支えへ。
これでは、ただの新しい階層社会である。
五つ目は、サービス水準を下げることである。
介護サービスを薄くする。
道路の補修頻度を下げる。
ごみ収集を減らす。
公共交通を減らす。
災害復旧を遅らせる。
医療や救急の水準を下げる。
行政手続きの対応を遅くする。
これも一つの選択ではある。
しかし、その不便とリスクを誰が引き受けるのか。
高齢者、障害者、病人、子育て世帯、低所得者、地方在住者ほど影響を受けやすいのではないか。
ここでもまた、弱い人にしわ寄せが行く可能性が高い。
こう考えると、「みんながワクワクに従う社会」は、単純な理想ではなく、かなり重い設計問題であることが分かる。
誰が必要労働を担うのか。
その労働にどう報いるのか。
どう減らすのか。
どう分担するのか。
どう弱い立場の人に押し付けないようにするのか。
どう専門性を維持するのか。
どう緊急時に対応するのか。
これらを考えなければ、「ワクワクに従えばいい」は、社会思想にはならない。
個人の解放術にとどまる。
そして、個人の解放術にとどまるなら、正直にそう言えばいいのだと思う。
「これは、社会全体を変える思想ではありません」
「会社や家庭や世間に抑圧されている個人が、自分の人生を取り戻すための考え方です」
「社会のインフラや必要労働の問題は、別途考える必要があります」
そう言うなら、私はかなり納得できる。
しかし、それを「新しい世界」「脱ピラミッド」「個神の時代」「お金のない信頼社会」と大きく語るなら、必要労働の問題から逃げることはできない。
社会は、ワクワクだけでは回らない。
むしろ、社会のかなりの部分は、誰かが面倒なことを引き受けることで回っている。
夜中に水道管が破裂したら、誰かが現場へ向かう。
台風で倒木が道路を塞いだら、誰かが撤去する。
高齢者が排泄できなければ、誰かが介助する。
感染症が広がれば、誰かが検査し、記録し、調整する。
火事になれば、誰かが火の中へ向かう。
土砂災害が起これば、誰かが危険な場所へ入る。
税を払わない人がいれば、誰かが徴収する。
苦情が来れば、誰かが説明する。
共同体の中で利害がぶつかれば、誰かが嫌われながら調整する。
これらは、必ずしもワクワクしない。
むしろ、嫌われることも多い。
感謝されないことも多い。
当たり前だと思われることも多い。
失敗したときだけ責められることも多い。
しかし、社会はそういう仕事によって支えられている。
ここで、私は改めて思う。
ワクワクは花である。
花は美しい。
人を引きつける。
香りがある。
色がある。
見る人を癒やす。
そこに蝶や蜂が集まる。
しかし、花だけでは植物は生きられない。
根がいる。
茎がいる。
土がいる。
水がいる。
微生物がいる。
陽がいる。
剪定や手入れがいることもある。
社会も同じである。
自己表現、創作、スピリチュアル、ワクワク、自然派マルシェ、オンラインサロン。
それらは花である。
花としての価値はある。
しかし、根の労働を軽視してはいけない。
下水処理。
道路維持。
介護。
医療。
廃棄物処理。
物流。
消防。
行政。
税務。
保守。
点検。
調整。
苦情対応。
これらは根である。
目立たない。
きれいではない。
ワクワクしにくい。
映えない。
商品化しにくい。
語ってもフォロワーが増えにくい。
しかし、根がなければ花は咲かない。
だから、ワクワクを語るなら、根を見なければならない。
「好きなことをして生きよう」と言うなら、その生活を支えている嫌なこと、面倒なこと、危険なことを誰が引き受けているのかを見なければならない。
「脱ピラミッド」と言うなら、ピラミッドの下で今も働く人たちを見なければならない。
「お金より信頼」と言うなら、信頼だけでは回らない広域的な分業を見なければならない。
「自然との循環」と言うなら、街路樹を剪定し、雑草を刈り、落ち葉を片付け、水路を管理し、災害に備える人たちを見なければならない。
私は、ワクワクを否定しているのではない。
ワクワクが、根を忘れた花になることを危惧している。
もし、ワクワク論が本当に成熟するなら、次の段階へ進む必要がある。
個人が何にワクワクするか。
そこから始めるのはよい。
しかし、その次に、
社会に必要だがワクワクしにくい労働を、どう尊重するか。
どう報いるか。
どう分担するか。
どう減らすか。
どう弱い人に押し付けないか。
そこまで考えなければならない。
それがなければ、ワクワク論は、足場を持つ人が上澄みに移動するための言葉になってしまう。
そして、残された足場を、誰かが黙って支え続けることになる。
私は、その構図にどうしても引っかかる。
花は美しい。
しかし、根を見ずに花だけを称える思想は、やがて根を枯らす。
根が枯れれば、花も枯れる。
だからこそ、ワクワクを本当に守りたいなら、ワクワクしにくい労働にも敬意を向けなければならない。
そこからしか、現実に耐えうるワクワク論は始まらない。

コメント