前回、もし自分が悪徳商人だったら、どのように「未来」を商品にするかという思考実験を書いてみた。未来は誰にも分からない。だからこそ、人は答えを知りたがる。
売り手側からすれば、未来という商品は答え合わせが難しく、外れたときの責任も曖昧にしやすい。「当たれば私の能力。外れれば、あなたの執着や潜在意識のせい」。そんな仕組みを作ってしまえば、原価もかからず、非常に都合のよいビジネスが完成する。我ながらずいぶん意地の悪い思考実験だと思う。
しかし、ここで一つ立ち止まって考えてみたい。なぜ人は、そんな検証すらできない話に安直にお金を払ってしまうのだろうか。単に愚かだから? 科学的なリテラシーが足りないから? あるいは、騙されやすいから?
どうも、それだけでは説明がつかない気がするのだ。スピリチュアルな物語が人々の心に入り込む場所には、科学や社会制度では決して埋めることのできない、「本物の空白」がぽっかりと空いているからではないだろうか。
科学や制度では埋められない「本物の空白」
私たちは今、この世界を当たり前のように体験している。朝になれば目が覚め、人と話し、仕事をし、ご飯を食べて眠りにつく。自分には意識があり、目の前には他人がいて、外には広い世界が広がっている。
しかし、なぜ、そもそもこの現実が「存在」しているのかという根源的な問いに対して、最終的な答えを持っている人間は一人もいない。
宇宙がどのように始まり、どう変化してきたかについて、科学は多くのことを解き明かしてきた。けれど、「なぜ、宇宙が存在するのか」「なぜ『無』ではなく『有』なのか」、そして「なぜ、私たちは今この現実を体験しているのか」という領域に踏み込むと、途端に言葉を失ってしまう。宇宙の外側に何があるのか、時間が始まる前はどうなっていたのか、死んだ後に何かは残るのか。
こうした問いに対し、誰かが「宇宙は神が創りました」と言ったとしても証明は難しいし、逆に「神など絶対に存在しません」と完全に証明することもまた難しい。「これは私なりの解釈です」と言われてしまえば、裁判所も科学者も、その人の世界観そのものを直接裁くことはできないのだ。事実として確認できることと、世界全体をどう解釈するかは、明確に違う。
スピリチュアルは、その「誰にも答えられない場所」へ、ためらうことなく物語を置いてみせる。
「この宇宙には目的があります」 「あなたの魂は、学びのために地球へ来ました」 「すべての出会いと出来事には意味があります」
それが正しいかどうかは、誰にも確認できない。しかし、確認できないからこそ、誰も完全には否定しきれない。ここに、スピリチュアルの非常に強固な足場がある。
人は「意味」がないと生きていけない
私たちは普段、自分の人生には何らかの意味や価値があることを、あまり疑わずに生きている。子どもを育てること、仕事をすること、誰かを愛すること、幸せになること。人によってその中身は違っても、「これは大切なことだ」「これをするために生きている」という芯のようなものを、どこかに持っているはずだ。
それがなければ、毎朝起きて満員電車に揺られ、面倒なことに耐え、将来のために努力する理由がなくなってしまう。
もちろん、「人生には最初から決められた目的などなく、自分で意味を作ればいい」と割り切れる人もいるだろう。それでも、自分で作ったその意味に価値があると信じられなければ、日々の生活を営むことは難しい。人間は、「すべてが無意味で偶然であり、何をしても最後には消えてなくなるだけだ」という虚無的な世界を、頭で想像することはできる。しかし、それを心の底から受け入れて生きることは、そう簡単ではないのだ。
特に、自分の大切なものが突然理不尽に奪われたとき、この問題は痛々しいほどむき出しになる。
原因がわかっても、納得できるとは限らない
たとえば、ある人が、妻と、生まれたばかりの子どもの3人で、平凡だけれど幸せな生活を送っていたとする。ところが、ある日突然、認知機能の低下した高齢者が運転する車の事故に巻き込まれ、妻と子どもを同時に失ってしまった。
科学や警察は、事故の「原因」を綿密に調べるだろう。運転者の認知機能の低下具合、車の速度や方向、アクセルとブレーキの踏み間違い、道路構造の問題。そして裁判所は法的な「責任」を判断し、社会は「再発防止策」を考える。高齢者の免許制度を見直すことや自動ブレーキの普及は、もちろん重要だ。
しかし、それらの論理的な説明をすべて聞かされても、遺された人の問いは決して終わらない。
「なぜ、私の妻だったのか」「子どもは何のために生まれてきたのか」「あの老人に殺されるためだったのか」
科学は「事故がどのように起きたか」を説明し、裁判所は「誰に責任があるか」を決めてくれる。しかし、「二人の死を、私はどう受け止めればいいのか」までは教えてくれない。再発防止策がどれほど完璧に整っても、失われた妻と子どもは二度と戻ってこない。
事実の原因が分かることと、その事実を受け止め、心から納得できることは、全く別の次元の話なのだ。
「出来事の原因」と「出来事の目的」を切り離す
ここで、人間の心は出来事の原因だけでなく、その「目的」まで探し始めようとする。「この出来事には、何か意味があったのではないか」「二人の死は、私に何かを教えるためだったのではないか」。そう考えなければ、あまりにも理不尽すぎて心の置き場がないからだ。
しかし、「出来事に原因があること」と、「出来事に目的があること」は同じではない。
高齢者の認知機能が低下し、操作を誤り、たまたまそこに親子がいた。それは痛ましい事故の「原因」だ。しかし、その事故が、夫を成長させるという「目的」のために起きたとは限らない。事故の後に夫が血を吐くような思いで何かを学んだとしても、「学びを得たこと」と、「学ばせるために妻子が死んだこと」は絶対に切り離さなければならない。
人間は、後から生まれた結果を見て、出来事の目的を逆算してしまう癖がある。しかし、妻は夫の成長のための教材ではないし、子どもも社会へ教訓を与えるために生まれたわけではない。二人の人生の尊い価値を、最後に起きた悲惨な事故から逆算していいはずがないのだ。
スピリチュアルという「松葉杖」とその罠
科学も司法も沈黙するその過酷な場所で、スピリチュアルはそっと答えを差し出してくれる。「死は終わりではなく、元の世界へ戻っただけです」「二人は今も、あなたのそばで見守っていますよ」と。
遺された人が、その物語によって少しでも夜眠れるようになるなら、自分を責めるのをやめられるなら、私はそれを「非科学的だから今すぐ捨てなさい」と外から奪う必要はないと思う。人間は、事実や論理だけで生きているわけではない。物語や祈りが松葉杖となって人を支え、少しずつ現実の生活へ戻してくれるなら、それは間違いなくその人の役に立っている。
問題は、その物語でも空白が埋まりきらなかったときだ。
最初は「二人は天国で幸せにしている」という言葉に安心しても、しばらくするとまた不安になる。「本当だろうか」「なぜこの事故だったのか」。より深い答えを求めて別の霊能者を訪ねると、今度は「前世からの約束」や「家系のカルマ」、あるいは「あなたの波動を上げればつながれる」と言われる。そして、初級講座、覚醒セッション、ブロック解除へと足を踏み入れていく。
答えを求めれば求めるほど、「なぜ私はまだ二人を感じられないのか」「私に執着があるからだ」と新しい問題が生まれ、いつの間にか「宇宙の真理を受け取れない、まだ救われていない自分」という新たな苦しみまで背負い込んでしまう。
空白を埋めようとして、かえって空白を深めていく。これが、いわゆるスピリチュアルへの依存へと絡め取られていく仕組みなのだと思う。
意味がないことと、価値がないことは違う
スピリチュアルを信じることが健全か危険かの境目は、至ってシンプルだ。「その物語を使って現実の人生へ戻れるか」それとも、「その物語が本当か確かめるために、現実の人生を差し出し始めるか」である。杖を使って歩き出すのではなく、より立派な杖を探し続けること自体が人生になってしまったら、それは本末転倒だ。
ここでもう一つ、考えてみたいことがある。もしあの事故に宇宙的な意味など何一つなかったとしたら、妻と子どもの人生まで「無意味」になってしまうのだろうか。
私は、決してそうではないと思う。「事故が何らかの目的のために起きたわけではない」ということと、「二人が生きていたことに何の価値もなかった」ということは、全く別の話だ。
一緒に過ごした時間、交わした言葉、抱いた感情、誰かを愛し愛されたこと。それらの価値は、宇宙があらかじめ設定した「目的」がなくても、決して消えたりはしない。包丁や車のように「特定の用途」のために製造されたわけではない私たち人間の人生の価値は、生きている間の関係や経験の中にこそ宿るものだ。
悲劇の後に遺された人が、同じような事故を減らす活動を始めたり、あるいはただ静かに二人のことを忘れずに生きていくと決めたなら。それは「宇宙が隠していた事故の意味を発見した」のではなく、「妻子を奪われた人が、悲劇に完全に壊されてしまわないために、自らの人生に新しい意味を与え直した」ということだ。
悲劇を起こした宇宙や神が最初から正しかったのではなく、悲劇は最後まで理不尽なままであり、それでも人間がその後を生きようとした営みそのものに、価値があるのだ。
「分からない」という余白にとどまる勇気
私たちは、心に空白があるとすぐに埋めたくなる。答えがないと不安でたまらない。だからこそ「すべてには意味があります」という言葉は甘く、強い。
しかし、本当にすべてに意味があるのかは誰にも分からないし、逆に「すべては無意味だ」と言い切ることも誰にもできない。それならば、「意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。今の自分には分からない」という場所に、ただとどまってもいいのではないだろうか。
それは、思考停止でも冷たい無回答でもない。分からないことを分からないままにしておくことは、「他人が作った物語に、自分の人生を明け渡さない」ための強固な砦になる。誰かに「あなたの妻子は、あなたを成長させるために死んだのです」と勝手に結論づけられないための、大切な余白なのだ。
自分自身が何年か後に別の意味を見つけるかもしれないし、何も見つけないかもしれない。途中で考えが変わるかもしれない。その自由を残しておくためには、空白を急いで埋めない勇気も必要なのだと思う。
では、安易な答えを与えず、空白を空白のまま残すとしたら、目の前で苦しんでいる人に対して私たちは何ができるのだろうか。ただ「分かりません」と突き放すしかないのだろうか。
たぶん、そうではない。答えを押し付けることと、何もしないことの間には、もう一つの場所があるはずだ。

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