「亡くなった人のことを悪く言ってはいけない」と、昔からよく言われる。
たしかに、死者は反論できない。遺族が悲しんでいる場で、わざわざ故人の悪いところを持ち出すのも、配慮を欠くことがある。だから私は、この言葉を、死者の尊厳を守るための道徳だと思っていた。
でも、少し考えてみると、死者本人は、死後に何を言われても聞いてはいない。傷つくことも、不快になることもない。
実際に傷つくのは、残された家族や友人である。気まずくなるのは、その話を聞かされた周囲である。乱されるのは、静かに故人を送りたいという、生きている人たちの空気である。
そう考えると、「死者への礼儀」は、死者本人への配慮というより、死者をめぐって生きている人々の秩序を守るエチケットとして働いているのかもしれない。
人前でゲップをしないのと、少し似ている。
ゲップを聞かされた周囲が不快になるから、控えるべきだとされている。
死者の悪い記憶を語ることも、それを聞いた人が不快になり、どう反応すればよいか分からなくなる。悲しんでいる人に同情すればよいのか、悪い記憶を語る人の話を聞けばよいのか。どちらにも簡単には立てない。
だから社会は、「死者に鞭打つな」という言葉を使って、その面倒な対立を早めに閉じようとする。
もちろん、何でも死後に言ってよいわけではない。確かめようのない噂を広めたり、遺族を傷つける目的で故人を侮辱したりすることは、慎むべきだと思う。
ただ、良い記憶だけは追悼として語ることができ、悪い記憶は礼儀違反として胸の内にしまうよう求められるなら、故人の人生は少しずつ美しい方へ編集されていく。
そのとき、沈黙の費用を払うのは、悪い記憶を持っている生者である。
社会の平穏は、ときどき、誰かが不快な記憶を飲み込むことで保たれている。
だから「死者に鞭打つな」と言いたくなったときには、一度だけ考えた方がよいのかもしれない。
私は本当に死者を守ろうとしているのか。
それとも、聞きたくない話から、自分たちの平穏を守ろうとしているのか。
死者への礼儀は大切だ。
でも、その礼儀のために、生きている誰かへ永遠の沈黙を求めていないか。そのこともまた、生者同士の礼儀として考えておきたい。

コメント