「丸い社会ごっこ」論――現実逃避と社会設計のあいだ

雑栗わかる氏のポストに、次のような趣旨の言葉があった。

欲しいものを我慢せず買える。
好きなことをしてお金が入ってくる。
その人の世界には、実は「お金」は無いのと一緒である。
お金の無い丸い社会とは、このような形でも達成できる。

この言葉は、一見すると自由で明るい。

しかし、少し立ち止まると、大きな飛躍がある。

ここで語られているのは、本当に「社会」なのだろうか。
それとも、個人の主観状態なのだろうか。

「欲しいものが買える」という状態は、お金が無いことを意味しない。
むしろ、お金が機能していることを意味する。

商品がある。
価格がある。
売り手がいる。
買い手がいる。
決済手段がある。
物流がある。
生産者がいる。
税や法や契約も背後にある。

つまり、社会全体からお金が消えたのではない。
その人にとって、お金が摩擦として感じられなくなっているだけである。

これは「お金のない社会」ではなく、
お金を気にしなくてよい主観状態
である。

人がお金に縛られない感覚を得る方法は、大きく三つに分けられる。

第一に、購買力を上げること。
収入を増やし、資産を作り、投資し、FIREを目指す。
これは自己啓発や稼ぐ系の文脈で語られやすい。

第二に、欲望を下げること。
足るを知る。執着を手放す。ミニマリズム的に暮らす。
欲しいものが少なければ、お金の必要も小さくなる。

第三に、比較対象を制限すること。
SNSを見ない。高消費社会から距離を取る。
同じ価値観を共有する共同体に入り、その中で満ち足りる。

雑栗氏の「丸い社会」は、表面上は第一の道、つまり「好きなことでお金が入る」道を語っているように見える。
しかし実際には、第二と第三の道、つまり欲望を調整し、比較対象を閉じることで、主観的にお金の不自由さを減らす方法に近いのではないか。

これは、個人の生活戦略としては十分に意味がある。

嫌な仕事を減らす。
固定費を下げる。
過剰消費から降りる。
自分に合った小さな仕事をする。
身近な人と交換し、贈与し、助け合う。

こうした生き方は、人を救うことがある。

問題は、それを「社会」と呼ぶことである。

社会というなら、個人の主観的満足だけでは足りない。
そこには、生産、分配、労働、希少性、法、税、医療、教育、介護、物流、インフラ維持が含まれる。

誰かが食料を作る。
誰かが水道を維持する。
誰かが下水を処理する。
誰かが道路を直す。
誰かが病院で夜勤をする。
誰かが高齢者を介護する。
誰かがゴミを集める。
誰かが配送する。
誰かが苦情対応をする。

全員が好きなことだけをして、全員が欲しいものを我慢せず、なおかつ高度な経済水準を維持するなら、その仕組みを説明しなければならない。

それを説明しないまま「丸い社会」と言うなら、それは社会設計ではない。

では、何なのか。

私はそれを、
丸い社会ごっこ
と呼びたい。

「丸い社会ごっこ」とは、貨幣社会の上に作られた、主観的にお金から自由になったように感じられる共同幻想空間である。

そこでは、共通の言葉がある。
ワクワク。
循環。
宇宙銀行。
お金のない世界。
ピラミッドではなく丸。

そこには村長のような語り手がいる。
村人のような参加者がいる。
外側の社会に対する違和感がある。
内側では承認と共感が循環する。

この意味では、たしかに一つの「社会」は生まれている。
ただしそれは、国家や市場やインフラを含む客観社会ではない。
同じ主観状態を共有する人たちの、内輪の村社会である。

ここで「丸い」という言葉の意味も変わる。

表向きには、エネルギーが循環する丸である。
しかし実際には、内と外を分ける境界線としての丸でもある。
バドミントンサークルのサークル。
オンラインサロンのサロン。
村の境界線。
結界としての輪。

内側では「お金ではない」と言える。
しかし外側には、貨幣経済、税、医療、物流、スマホ、SNS、銀行、行政がある。

この外側の現実に支えられながら、内側では「お金のない感じ」を味わっている。

だから「丸い社会」とは、社会全体の代替案ではなく、
貨幣社会内に作られた主観FIREサークル
なのではないか。

ここで重要なのは、現実逃避そのものは悪ではないということだ。

人間は、現実逃避なしには生きられない。
映画、旅行、ゲーム、推し活、神社巡り、酒、ライブ、漫画、YouTube。
それらはすべて、ある意味で現実逃避である。

さらに言えば、仕事もまた一つの現実逃避かもしれない。
会社、肩書、貨幣、GDP、株価、会議、資料、制度、アルゴリズム。
これらも、人間が作った巨大な設定である。

現実と現実逃避の境目は、実はそれほど明確ではない。

現実とは何か。

それは、単に物理的に存在するものではない。
多くの人が参加し、信じ、行動し、資源を投じることで重くなった共同幻想である。

ビットコインは、最初はただのコードであり、思想であり、実験だった。
しかし参加者が増え、取引所ができ、価格がつき、国家が規制対象にし、企業が保有するようになると、それは現実として重くなる。

貨幣も、国家も、会社も、法律も、学歴も、アルゴリズムも同じである。
それらは設定である。
しかし、多数の人がその設定に従って行動することで、現実になる。

ただし、その現実は環境によって変わる。

都市生活者にとって、AmazonやGoogleは現実である。
しかし、アマゾンなどの未接触部族にとっては、Google検索より、獲物の気配や毒蛇を避ける身体知の方がはるかに現実である。

「Googleが獲物を獲ってきてくれるのか?」
「Amazonで翌日届くと言うが、今お腹が空いているのに翌日まで待つのか?」
「毒を持つ生き物をGoogleレンズで調べている間に刺されるのではないか?」
「その検索結果が間違っていて死んだら、Googleは責任を取ってくれるのか?」

この問いは、現実が環境依存であることを示している。

つまり、現実とは、その環境で生存、行動、資源配分、他者関係を左右するもののことである。

この観点から見れば、雑栗わかる氏のオンラインサロン「クリサロ村」も、完全な妄想ではない。
その内側では、人が集まり、言葉が共有され、感情が動き、お金も動く。
内側では、それは一つの現実である。

しかし、それが外部社会の制約に耐えられるかは別問題である。

外部には、税がある。
医療がある。
物流がある。
法律がある。
食料生産がある。
下水処理がある。
介護がある。
災害対応がある。
苦情処理がある。

そこに接続した瞬間、「丸い社会ごっこ」は急に弱くなる。

だからこそ、その弱さを直視しないために、外部社会はしばしば「仮想敵」として描かれる。

税金は陰謀である。
国家は搾取装置である。
公務員は無駄遣いをしている。
支配者が人々から奪っている。
ピラミッド社会が人間を苦しめている。

もちろん、現実の国家や税制や行政に問題がないわけではない。
無駄もある。
不公平もある。
既得権益もある。
批判されるべき構造もある。

しかし、それらをすべて「支配者の搾取」としてまとめてしまうと、外部社会が実際に担っている膨大な機能を見なくて済んでしまう。

道路を維持する人。
水道を守る人。
下水を処理する人。
医療を回す人。
介護を担う人。
税を集め、制度を運用し、苦情を受け、災害時に動く人。

そうした現実の仕事を具体的に見ると、「では丸い社会では、それを誰がどう担うのか」という問いが避けられなくなる。

しかし、その問いは「丸い社会ごっこ」の設定を壊してしまう。

だから外部社会は、設計課題としてではなく、敵として語られる。
支配者という仮想敵は、単に外部を攻撃するためだけにあるのではない。
それは、丸い社会ごっこの内側を守るための壁でもある。
現実の問いが入ってこないようにするための結界でもある。

だから問題は、ごっこ遊びであることではない。
問題は、ごっこ遊びを社会設計と呼ぶことである。

比喩としての世界観は、人を救う。

だから問題は、ごっこ遊びであることではない。
問題は、ごっこ遊びを社会設計と呼ぶことである。

比喩としての世界観は、人を救う。

ドラゴンボール的な世界観で、修行や仲間や成長を考えることはできる。
ドラえもん的な世界観で、未来技術や子どもの願望を考えることはできる。
サザエさん的な世界観で、家族や地域を考えることもできる。

しかし、それらをそのまま現実社会の設計図にしてはいけない。

ドラゴンボール的社会を本当に作るなら、戦闘力の高い者が資源を奪う世界になりかねない。
ドラえもん的社会を本当に作るなら、都合の悪いことはタイムマシンやもしもボックスで解決できる前提になってしまう。
サザエさん的社会を本当に作るなら、現代の個人の自由やジェンダーや労働の問題を見失う。

世界観は比喩として使うから豊かなのであって、社会設計として使うと破綻する。

雑栗わかる氏の「丸い社会」も同じである。

「丸い発想」はよい。
競争だけではない。
お金だけではない。
ワクワク、贈与、信頼、循環を大切にする。
そこまでは十分に意味がある。

しかし、それを「お金のない丸い社会が達成できる」と言い始めると、話は変わる。

それは、個人の主観的自由を、社会制度の話にすり替えている。
生活戦略を、社会設計に見せている。
現実逃避を、現実の代替案のように語っている。

結論はシンプルである。

丸い社会ごっこなら、してよい。
しかし、丸い社会ごっこを、丸い社会そのものだと言ってはいけない。

現実逃避は、人を救う。
ごっこ遊びは、心を守る。
共同幻想は、現実の一部になることもある。

しかし、それが社会になるためには、外部世界の抵抗に耐えなければならない。

生産。
分配。
労働。
希少性。
税。
法。
医療。
教育。
介護。
物流。
インフラ。

そこまで含めて初めて、社会と呼べる。

だから、雑栗わかる氏のポストへの最も短い返答は、こうなる。

それは、お金のない社会ではない。
お金が気にならない主観状態である。

そして、もう少し踏み込めば、こうなる。

それは、社会設計ではない。
丸い社会ごっこである。

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