SNSで、「話し合いで物事が解決するのは、誰も本気で社会を作ろうとしていないからだ」という趣旨の投稿を見かけた。
本気で理想社会を作りたい人間が現れれば、話し合いではなく実力行使で社会を変える。話し合いが成立するのは、みんなの参加意欲が低く、「どうでもいい」と思っているからだ、という主張だった。
最初は何となく分かる気もした。
しかし考えているうちに、少し違うのではないかと思うようになった。
そもそも、人はそんなに戦いたい生き物なのだろうか。
野生動物を見ても、まず威嚇する。唸る。体を大きく見せる。それで済むなら済ませる。
相手が襲ってこないなら何もしない。
逃げられるなら逃げる。
それでも駄目なら、最後に戦う。
農民一揆だって同じだろう。年貢が重いからといって、すぐ一揆になるわけではない。陳情し、我慢し、それでも飢えて死ぬとなった時に初めて立ち上がる。
革命も同じだと思う。
人々が突然「やる気」を出したのではない。
現状を維持するコストが、戦うコストを上回ったから戦ったのだ。
そう考えると、「やる気がない」という説明は少し違うように思える。
むしろ、人類は長い歴史の中で、できるだけ戦いを避ける個体や集団の方が生き残ってきたのではないだろうか。
戦いは高コストだ。
怪我をする。
死ぬ。
恨みが残る。
だから、まず我慢する。
我慢で済まなければ話し合う。
話し合いで済まなければ戦う。
順番としては、こちらの方が自然に見える。
考えてみれば、話し合いそのものも楽な行為ではない。
相手の話を聞く。
自分の考えを整理する。
反論を受ける。
言い返す。
とても面倒だ。
だから、人は「相手を理解したいから話し合う」のではない気もする。
むしろ、
「不満がある」
「望む結果がある」
「相手に動いてほしい」
という気持ちが先にある。
そのための手段として話し合う。
私は以前、「話し合いとは相互理解なのだろうか」と考えた。
しかし考えれば考えるほど、それもしっくり来ない。
現実の話し合いでは、みんな自分の言いたいことを言っている。
こちらも自分の言いたいことを言う。
相手から見れば、私もまた「自分の言いたいことを言っているだけの人」だろう。
だから、話し合いとは相互理解というより、交渉に近いのかもしれない。
そもそも正解がある問題なら、話し合いは必要ない。
法律に違反しているか。
計算が合っているか。
事実がどうか。
それは確認や伝達で済む。
話し合いが必要になるのは、正解がない問題だ。
だから話し合いのゴールは、真理の発見ではなく、
「この辺りで矛を収めよう」
という妥協点を探すことなのかもしれない。
私は今でも、話し合いが万能だとは思わない。
しかし、話し合いが成立する社会を「やる気がない社会」と呼ぶのも違う気がする。
むしろそれは、
戦うコストを知っている社会、
そしてまだ、我慢や話し合いの方が安く済む社会なのではないだろうか。

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