あるオンラインマルシェを見ていた。


自然な材料を使ったお菓子。手作りの食品。身体に優しいとうたわれる商品。作り手の想いが込められた品々。
そういうもの自体は、素敵だと思う。
大量生産されたものではなく、一人ひとりのこだわりが見えるもの。顔の見える人から買うもの。誰かの小さな創作や暮らしの延長にあるもの。
そういうものに温かさを感じる気持ちは、私にも分かる。
けれど、ある商品を見て少し立ち止まった。
数枚入りのクッキーが2800円。送料を入れれば3000円を軽く超えそうだ。
もちろん、高い理由は分かる。
良い材料を使っているのだろう。手間もかかっているのだろう。大量生産品とは違うのだろう。作り手の想いもあるのだろう。
でも、同時に思った。
これは誰が日常的に買えるのだろう。
私たち庶民は、おやつに毎回3000円を払えるほど豊かではない。生活に困っているわけではなくても、身体に良いものだけを選び続けられるほどのお金持ちではない。
自然なもの。安全なもの。身体に優しいもの。
それが大切なのは分かる。
けれど、それを本当に毎日の生活に取り入れられる人は、どれほどいるのだろう。
考えてみれば、良いものは高くなる。
農薬を減らす。抗生物質を減らす。平飼いにする。フェアトレードにする。手作業を増やす。少量生産にする。
どれも価値がある。
けれど、それは同時に、土地、時間、人手、管理コストを増やすということでもある。
一羽の鶏に広い場所を与えれば、それだけ必要な面積は増える。病気を防ぐために良い環境を整えれば、それだけ費用はかかる。農薬を使わずに育てれば、手間もリスクも増える。
つまり、良いものを作ろうとすればするほど、供給量は減り、価格は上がる。
ここで、ひとつ思考実験をしてみる。
もし明日から、全員が食の安全に目覚めたらどうなるのだろう。
無農薬しか食べません。
天然うなぎしか食べません。
平飼い卵しか買いません。
フェアトレードの商品しか選びません。
そうなったら、世界は一気に良くなるのだろうか。
たぶん、そう単純ではない。
天然うなぎは取り合いになり、枯渇する。平飼い卵は高騰する。無農薬野菜は供給が追いつかなくなる。
結局、良いものを食べられるのは、良いものを買える人だけになる可能性がある。
「目覚めた人」が良いものを食べられるのではない。
「お金を持っている人」が良いものを食べられる。
しかも、それは今と変わらないどころか、今より悪くなるかもしれない。
日本の経済力が相対的に落ちていく一方で、インドや中国のような人口の多い国、アメリカのような経済大国の人々が、こぞって「本当に良いもの」を買い始めたらどうなるのか。
天然もの、無農薬、平飼い、希少な原材料、手仕事の食品。
それらは、世界中の富裕層によって取り合いになる。
そのとき、良いものは「目覚めた庶民」のところへ届くのではなく、より強い購買力を持つ人のところへ流れていく。
つまり、食の安全に目覚めることと、良いものを日常的に食べられることは、まったく別の問題なのだ。
大量生産には、もちろん悪い面もある。
過剰な消費。使い捨て。労働の不可視化。環境負荷。安さの裏側に押し込まれた痛み。
それらは無視できない。
けれど、大量生産は単なる悪ではなかった。
大量生産は、そこそこの品質のものを、多くの人が買える価格まで下げた。
車。スマホ。冷蔵庫。服。食品。薬。日用品。
昔なら一部の富裕層しか持てなかったものを、庶民にも届けた。
私たちが今日、当たり前のように服を選び、食べ物を買い、スマホで発信し、電車やバスに乗り、冷蔵庫で食品を保存できるのは、大量生産と大量流通が生活の基盤を押し下げてくれたからでもある。
大量生産は悪だけではない。
それは、庶民に生活の余白を与えた文明装置でもあった。
もちろん、だから大量生産を礼賛すればいいという話ではない。
ただ、自然派や手作りや個性を語るときに、そこだけを美しいものとして持ち上げ、大量生産を単純に悪として切り捨てるのは、少し違う気がする。
一つの小さなつぶやきでさえ、実は膨大な社会的蓄積の上にある。
たとえば、誰かがSNSにこう書く。
「私、この色の服が好き」
それは、とても個人的な感覚に見える。
けれど、その一文が成立するまでには、どれほど多くの前提があるのだろう。
そもそも言語がなければ、その気持ちは言葉にならなかった。
教育がなければ、その言葉を読み書きできなかった。
スマホやインターネットがなければ、その気持ちを社会に向けて発信できなかった。
服を作る人がいなければ、「この色の服が好き」と言うこともできなかった。
貨幣や流通の仕組みがなければ、その服を手に入れることも難しかった。
大量生産がなければ、庶民が気軽に色や形を選ぶ余白すら、今ほどなかったかもしれない。
さらに言えば、服飾文化やブランドや流行の蓄積がなければ、「この色が好き」という感受性そのものも、今とは違った形をしていただろう。
一つの「好き」は、一人の内側だけから生まれているようでいて、実際には、言語、教育、文化、産業、物流、制度、技術、歴史の膨大な蓄積を吸い上げて咲いている。
そう考えると、社会は一本の世界樹に似ている。
土壌には、地球と自然がある。
根には、電気、水道、道路、通信、農業、物流といったインフラがある。
幹には、制度、行政、企業、技術者、運営者たちの働きがある。
枝葉には、地域社会や共同体がある。
そして、その先に、自己実現や創作やワクワクという花が咲く。
オンラインマルシェのような場は、まさに花の領域だと思う。
自分の好きなものを作る。
自分の感性を形にする。
自分と似た価値観の人に届ける。
それは花だ。
花は美しい。
花は必要だ。
根や幹だけの木には、どこか寂しさがある。花が咲き、実がなり、香りが生まれるからこそ、木は生きているように感じられる。
だから、私は自己実現や創作やワクワクを否定したいわけではない。
むしろ、それらは人間にとって大切なものだと思う。
けれど、花が自分だけで咲いていると思い始めると、違和感が生まれる。
さらに、花が根や幹に向かって、
「あなたたちは古い」
「あなたたちは目覚めていない」
「あなたたちはピラミッド社会の奴隷だ」
などと言い始めたら、どうだろう。
その花は、たしかに美しいかもしれない。
しかし、その花は、根から樹液をもらっているのだ。
道路を使って商品は運ばれる。ネット回線を使って注文は届く。電気があるからサイトは動く。貨幣制度があるから売買できる。法律があるから取引の安全が守られる。物流の人がいるから荷物が届く。農家がいるから材料がある。清掃員がいるから街は保たれる。自治体職員がいるから地域の制度は回る。
そういう根や幹の働きがあるから、花は咲ける。
にもかかわらず、花だけが自分を特別だと思い、根や幹を見下し始めると、そこに傲慢さが生まれる。
ふと、『天空の城ラピュタ』を思い出す。
ラピュタの庭園は美しい。
ロボットがいる。鳥がいる。キツネリスがいる。花が咲いている。争いのない理想郷のように見える。
あの庭園だけを見れば、誰だって「素敵」と思う。
けれど、シータは最後に言う。
「土から離れては生きられないのよ」
彼女は、花を否定したのではない。
庭園を否定したのでもない。
土を忘れた理想郷では、人は、生き永らえられないことを、知っていたのだと思う。
どれほど美しい庭園でも、どれほど高度な科学でも、どれほど優しいロボットがいても、土から離れた世界は、人間の暮らす場所にはならない。
人間は、面倒な他者と生きる。
汚れた道を歩く。
働く。
食べる。
老いる。
間違える。
誰かに迷惑をかける。
誰かの働きに支えられる。
そういう不完全な土の上でしか、生きられない。
私は、オンラインマルシェのような場を見ていて、どこかラピュタの庭園のようなものを感じたのかもしれない。
キラキラしている。
ワクワクしている。
優しい人たちが集まっている。
好きなことをしている。
それは素敵だ。
けれど、マルシェは空中に、あるいはデジタル空間に浮いているわけではない。
実際には、地上の道路を使い、地上の物流を使い、地上の貨幣を使い、地上の制度を使い、地上の労働に支えられている。
だから、自由を語るなら、土も見たい。
ワクワクを語るなら、根も見たい。
「個神」を語るなら、花だけでなく、世界樹の全細胞を見たい。
「個神」というなら、オンラインマルシェの出店者だけが「個神」なのではない。
清掃員も「個神」。
ドライバーも「個神」。
農家も「個神」。
自治体職員も「個神」。
ワクチンを打った人も「個神」。
普通に会社で働く人も「個神」。
スーパーでレジを打つ人も、道路を補修する人も、電線を直す人も、下水を管理する人も、みんな世界樹の一部だ。
そこに、なにかに覚醒しているかどうかのような序列を持ち込むと、「個神」という言葉は急に狭くなる。
本当に一人ひとりが尊いというなら、自分と似た価値観の人だけではなく、自分とは違う価値観の人も、その世界樹の細胞として見なければならない。
花は悪くない。
花は美しい。
自己実現も、ワクワクも、好きなことで生きることも、人間に必要だ。
けれど花は、根から樹液をもらい、幹に支えられ、土に生かされている。
そのことを忘れた花は、どれほど美しくても、どこか危うい。
栗の花は鼻につく。
でも、栗の実は好きだ。
花を否定したいわけじゃない。
花が咲くこと自体は素晴らしい。
ただ、ときどき思う。
花が自分だけで咲いていると思い始めると、
やっぱり少し、
鼻につく。

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