なぜこんなに薄っぺらい作り話が「いい話ですね」とされて、バズるのか

こんな投稿を見た。

たぶん、多くの人はそこで感動するんだと思う。

でも、自分はツッコミどころが多すぎて、引っかかりまくった。

特に、「ジュース」。

そこなのか、と。

もちろん、性格の悪い、素直じゃない読み方だとは思う。

でも、同じ時代に貧乏な学生だった人なら、当時の生活の記憶が残ってるだろう。

1円でも安く。
いかにお腹いっぱいになるか。
いかにラクをするか。

そればっかり考えてた。

米。
パスタ。
卵。
マヨネーズ。
醤油。
2リットル98円のジュース。

そういうので回していた。

だから、26,000円でとりあえず買うものが「米」「ジュース」だというのは、どうしても引っかかった。

「ジュース」って、むしろ貧乏人が常飲するものだ。

当時、本当に足りなかったのは、野菜だった。

スーパーのパック寿司がごちそうだった。

サイゼで、ミラノ風ドリア「以外」のメニューを頼みたかった(エスカルゴとか)。

もし、26,000円という金額があれば、家賃、電気ガス水道、授業料。

まずそういう「大金」を払える安堵感が出そうなんだよな。

そんな記憶があるものだから、感動より先に、このポストの「生活解像度」を読んでしまった。

しかも、他にもこんなポストがあった。

「白米と鰹節とごまと醤油を炒めて、具無しで食べていた」

という話。

たぶん、「貧乏飯だ」と言いたいんだろうけど、いや、それ、「具無し」じゃないよね。

それに鰹節って、むしろ、ぜいたく品では。

ごままで入ってる。

しかも、わざわざ炒めてるし。

もし、貧乏人の台所に、ごまと鰹節があったなら、ご飯に振りかけて、醤油でもかけて、炒めずに食べるだろう

本当にしんどい時って、そもそもフライパンを出したくない。

洗い物もできなくなる。

油ものの洗い物なんて、もってのほか。

チャーハンを作る元気がある時なら、ごまや鰹節なんかじゃなく、卵を入れる。

安いし、栄養もあり、パラパラチャーハンにできるし、ちゃんとご飯っぽくなるから。

あとは、もやしを炒めるとかかな・・・

もし、鰹節とごまと醤油でごはんを炒めるなら、それを「具無し」とは、呼ばない気もする。

「鰹節とゴマのチャーハン」

みたいに呼びそうな気がする。

具無しって、ほんとに、ごはんに塩だけをかけて食べるレベルを指す。

財布の話に戻るけど、

もし、手紙が財布に入っているのを発見する体験をしたならば、もっと「紙」として強烈に記憶に残りそうなんだよな、と思ってしまう。

レシートに埋もれてた感じとか、

長い間、財布に押し込まれて、ボロボロになっているいる感じとか。

そもそも、手紙を財布に入れるには、かなり折り畳む必要があって相当分厚いだろうし。

そういう手触りとか、生の体験が持つ匂い。

手紙そのものを実際に手にした者だけが感じる「衝撃」みたいなものが、全く感じられない。

こんな薄っぺらい作り話(であろう)ポストがバズるという現象を、一体、どう捉え、どう理解すればよいのか。

貧乏。
26,000円。
おばあちゃん。
動物園。
葛藤と良心。

嘘話であっても、感情が一瞬で伝わるところが強いのだろう。

いいねがつく。

フォロワーが増える。

インプレッションが回る。

場合によっては収益になるのだろう。

半額シール。

紙パックのジュース。
油でベタベタのフライパン。
ハンバーガー59円。
もやし一袋5円。

豚めし290円。

本当はそういう、どうでもいい断片の方に、時代とか生活って残る気がする。

でも、そういうものは、バズらない。

説明が必要だから。

読む人の身体で一度受け止めて、頭で考える労力が必要だから。

この手の投稿は、深く感動するから伸びるというより、反応しやすいというだけの理由で伸びるのかもしれない。

「極貧」
「財布」
「26,000円」
「盗みそうになった」
「子どもの手紙」
「でも届けた」

意味がすぐ通る。

読む側は、生活の細部を確かめなくてもいい。

米が本当に買えなかったのか。
ジュースはそんなに飲みたかったのか。
26,000円で当時、何を払えたのか。
手紙はどんな紙質だったのか。

そういうところで立ち止まらなくても、「いい話ですね」と返せる。

反応コストが低い。

たぶん、今のSNSでは、それが強い。

生活の匂いがある話は、読む側にも少し負荷をかける。

自分の記憶を掘ることになる。

時代の物価を思い出すことになる。

本当に困っていた「重さ」が読み手にものしかかる。

でも、読みやすい美談は、そこを全部飛ばせる。

だから速い。

そして、速いものが伸びる。

たぶん、いちばん気味が悪かったのは、「作り話が投稿されたこと」そのものではない。

人間は昔から話を盛るし、記憶も変わる。自分に都合よく編集もする。そこまでは、まだ分かる。

でも今回は、生きている人の身体だと思って触れたら、冷たい死体だった、みたいな気味悪さがあった。

本来なら、誰かが自分の体験を書き、それを別の生身の人間が読む。分かる、分からない、いやそこは違う、自分の時代はこうだった、と反応する。SNSって、そういう場だと思っている。

でも実際には、生活の手触りが全くない話と、そんな作り話に対して並ぶ「いい話ですね」という仮面みたいな反応だった。

本当か嘘かを確かめる気もない。

生活の匂いに立ち止まる気もない。

ただ、感動っぽい形をしたものに、感動っぽい反応を返す。

その方が速いし、安全だし、インプレッションにもなる。

嘘が混じっていることよりも、体験の皮を被った嘘が流通し、そこに死んだ目の人たちが「いい話ですね!」と無感情で返信している感じ。

その感じはとても「令和的」なのかもしれないけれど、氷河期世代の自分には、自分の生きてきた時代より、もっと寒く冷たく感じる。

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