人間は、常に「正しいこと」だけを選んで生きているわけではない。たぶん、そんなに単純な生き物ではないのだ。
私たちは、自分の周囲の環境を驚くほどよく観察している。
何をすればお金が稼げるのか。何をすれば尊敬されるのか。何をすれば注目を集められるのか。逆に、何をすれば損をし、誰からも無視され、ただ疲弊するだけなのか。
法律や道徳とは別の次元で、社会は人間に対して巨大な「報酬表」を常に見せつけ続けている。そして私たちは、そのシビアな報酬表を無意識のうちに見上げながら、自分の限られた時間や能力をどこに投じるべきかを学習していく。
私は最近、一見するとまったく無関係に思えるいくつかの出来事について、頭を巡らせていた。
オリンピックに出場するほどのトップアスリートが、自身の肉体を別の市場(OnlyFans)に持ち込んで直接収益化している現象。
長年の研究の蓄積に対して、「従来の常識は間違っている」と軽々しく異論を唱えるインフルエンサーが、絶大な注目を集める現象。
SNSにおいて、相手と丁寧に対話しようとする人よりも、「ばーか」「寝ろ」と煽って相手を怒らせる人の方が、圧倒的に強い反応(エンゲージメント)を引き出せる現象。
最初は、それぞれ別の話だと思っていた。しかし、考えれば考えるほど、すべての事象の背後に同じ一つの巨大な問いが透けて見えてきたのだ。
「この社会は今、いったい何に対して報酬を支払っているのか」という問いである。
努力量と値札は比例しない
オリンピックに出場するレベルの競技者になるには、十数年にも及ぶ血の滲むような訓練が必要だ。怪我の恐怖を引き受け、食事や生活のすべてを管理し、人生の最も輝かしい時期の大部分をたった一つの競技に捧げる。しかし、それほどの圧倒的な能力を獲得したからといって、将来の莫大な収入が約束されているわけではない。
一方で、その過酷な競技生活によって鍛え上げられた身体を「別の市場」へ持っていくと、突然、まったく違うロジックで価格が付く。
競技の世界では「何キロのバーベルを挙げられる身体なのか」が評価される。しかし成人向けコンテンツの市場では、「何人がその身体にお金を払ってでも見たいと思うのか」が評価される。
すると、競技能力とは直接関係のない端正な容姿、性的魅力、知名度、SNSでの発信力、あるいは「あのオリンピアンがここまで見せる」という希少性までもが、強力な値札の一部に変わる。
前回の考察でも触れた通り、私はここで「成人同士の合意に基づく取引」を道徳的に非難したいわけではない。本人が何を売り、相手が何を買うのかが明確で、双方が納得しているのなら、それを直ちに社会悪と呼ぶ理由は薄い。
私が気になったのは、その人たちではなく「値札の付き方」の構造だ。
社会は、人間が費やした「努力の量」を正確に測り、それに比例して報酬を支払っているわけではない。市場が測っているのは、どこまでいっても「需要」である。
欲しい人がどれだけいるか。どれだけ希少か。どれだけ簡単に課金できるか。そして、その需要へと直接つながる経路(プラットフォーム)を誰が握っているか。
社会の報酬表は、「誰が最も努力したか」ではなく、「どこに需要があり、その需要へ最短距離でアクセスできるのは誰か」によって書き換えられる。これは資本主義のメカニズムとしては、極めて自然な帰結だ。
しかし、文明全体の視点から俯瞰したとき、果たしてそれだけで社会は成立するのだろうか。
「全員が採用すると破綻する」最強の戦略
小学校の教室を思い浮かべると、この問題の構図が分かりやすい。
先生が「みなさん、おはようございます」と挨拶する。そこで一人の児童が「うるせー、ばーか」と言い放てば、ひょっとするとクラス中がどっと沸くかもしれない。その児童は、その瞬間、教室で最も大きな「注目」を得る。
次に別の児童が、先生の「席についてください」という指示に対して「おまえが座ってろ」と返す。また笑いが起きる。
もしこの教室に、「最も強い言葉を返し、最も大きな反応を引き起こした者が勝者である」という報酬表が持ち込まれたら、どうなるだろうか。
一人だけなら、ちょっとした人気者や異端児で済むかもしれない。しかし、三十人全員が「最も儲かるこの戦略」を採用した瞬間、授業というシステムそのものが完全に消滅する。
ここには、とても単純だが致命的な問題が潜んでいる。
「個人にとって合理的な戦略」と、「全員が採用しても社会が成立する戦略」は、決してイコールではないのだ。
列に割り込めば、一人だけなら早く進める。しかし全員が割り込めば、列そのものが崩壊する。誰か一人だけが対話を破壊して注目を集めれば、その人は目立てる。しかし全員が対話を破壊すれば、人間社会から「対話」という機能が失われる。
おそらく人類の文明は、有史以来、ずっとこのジレンマと格闘してきたのだと思う。
人間は、一度に一つの石しか置けない
科学について考えていたとき、私は頭の中で知識を「石」に見立てるようになった。
どれほど天才的な人間であっても、一人でできることには限界がある。一つの現象を観察する。一つの実験をする。一つの論文を書く。一つの反証を試みる。一つの記録を残す。
どれほど優れた研究者であっても、一人の力で未来の何百年分もの知識を一度に作り出すことはできない。人間は、肉体的にも時間的にも、一度に一つの石を置くことしかできないのだ。それはどこか、賽の河原の石積みのようにも思える。
しかし、人類はその途方もない作業を何世代にもわたって続けてきた。
一人が置いた石の隣に、別の誰かが石を置く。次の世代がその上にさらに石を積む。間違っていた部分を見つけて取り除き、精巧に組み直す人もいる。
その結果、いつしか無数の小さな石は、一人の力では到底動かすことのできない「巨大な巌(いわお)」となる。さざれ石が巌となり、強固な足場となる。
そして後から生まれた私たちは、その巌の上に立つことができる。
私たちは、ニュートンが行ったすべての観察を自分でもう一度やり直すことなく、「ニュートン力学では」の一言で物理学を利用できる。マルクスの人生を追体験しなくても、「マルクスによれば」と彼の思想体系を足場にできる。医学も、法律も、工学も、すべて同じだ。
一人一人が地道に石を一つずつ置いてきてくれたからこそ、後世の人間はその集合体をショートカットして利用できる。
文明とは、かなりの部分において「自分が置いていない石の上に立つことを許してくれる仕組み」のことなのかもしれない。
「巌を壊す音」を換金する人々
ここで、情報空間における不思議な非対称性に気づく。
石を一つ置くのには、途方もない時間がかかる。しかし、すでに形成された巌を「壊す」ことは、一瞬でできるのだ。
何百年も守られてきた寺社仏閣を想像してみてほしい。
建立した人がいる。修理し続けた職人がいる。そこで祈りを捧げた無数の人々がいる。何世代にもわたって受け継いできた地域の人々がいる。そこにあるのは単なる木材の集合体ではない。「膨大な時間」が凝縮されているのだ。
だからこそ、そこに火が放たれれば、社会を揺るがす大事件になる。
ところが、まったく同じ質量の木材を焼却炉で燃やしても、誰も見向きもしない。
違いは「燃え方」ではない。燃やされる対象が、それまでに「どれだけの価値と時間を蓄積してきたか」である。
つまり、情報空間における破壊者(対話を壊す者、既存の常識を無責任に否定する者)は、自分自身でゼロから「注目」を作り出しているわけではない。
彼らは、長い時間をかけて先人たちが蓄積してきた価値を破壊し、その際に生じるエネルギーを「一瞬の注目」へと変換しているに過ぎない。何百年かけて作られた象徴に火をつければ、その何百年分の重みが「事件性」として乗っかるからだ。
知識や道徳の世界でも同じことが起きている。
先人たちが長年かけて築き上げた科学体系があるからこそ、「今までの常識は全部嘘だった!」という暴論に大きなニュース価値が生まれる。「人の話を聞く」「相手をむやみに侮辱しない」という規範を社会が共有しているからこそ、それを露骨に破って「ばーか」と罵倒する人間が目立つ。
全員が最初から罵声だけで会話している社会なら、「ばーか」と言ったところで一円の価値も生まれない。
破壊型の注目経済は、「破壊せずに石を積み上げている多数派」が存在することに寄生して成立している。文明が長い時間をかけて作った秩序を破るからこそ、そこに「商品価値」が生まれるという、極めて皮肉な構造なのだ。
科学と「単なる逆張り」の決定的な違い
もちろん、これは「既存のものを盲信せよ」という話ではない。
科学はむしろ、既存の説明を徹底的に疑うことによって進歩してきた。民主主義や人権の歴史を見ても、既存の秩序への異議申し立てが文明を前へ進めた例は数え切れない。
重要なのは、「壊したあとに、そこにどんな新しい石を置くのか」ということだ。
既存理論の穴を見つける。それは間違いなく価値のある「新しい石」だ。しかし、「従来説には穴がある」と指摘しただけで、自分の足元に突然、立派な新しい巌が現れるわけではない。
新しい仮説を打ち立てたのなら、今度はその仮説のための観察が要る。測定が要る。第三者からの反証の試練を受ける必要がある。追試に耐えなければならない。そうやってまた一つずつ、地道に自分の石を置いていくしかないのだ。
ここに、科学と「単なる逆張り」の決定的な違いがある。
科学は既存の足場を疑うことを許容する。しかし、「疑った」という事実そのものには決して報酬を与えない。「疑い、検証し、新しい石を置いた者」だけを評価する。
これは科学に限らず、文明全体を維持するための基本原則なのだと思う。
積分される真実、微分される注目
ここでもう一度、時間の流れ方の違いについて確認しておきたい。
「真実」への信頼は、一瞬では生まれない。
異なる国で、異なる研究者が、異なる条件で何度も観察し、反証を試みる。それでも同じ結果が残る。そうしたものが長い時間を通じて蓄積して初めて、「これはかなり確からしい」という強固な足場になる。
「昔から言われているから正しい」のではない。長い時間の中で、何度も壊そうとする試練に耐え抜いたからこそ価値があるのだ。
この意味で、真実はどこまでも「積分的(蓄積的)」である。一つ一つの地道な観察を、時間をかけて足し合わせていくしかない。
それに対して、現代の「注目(エンゲージメント)」の市場は極めて「微分的(瞬間的)」だ。
昨日まで誰も知らなかった人間が、今日の一本の過激な動画で一気に100万人に見られる。重要なのは「今この瞬間、どれだけ注意の量が増加したか(傾き)」である。総量ではなく、傾きの鋭さが評価される。
真実は、時間をかけて面積を増やしていく。
注目は、一瞬の傾きが最大になればいい。
そして現代の市場は、時にその「一瞬の傾き」に対して、真実を積み上げるよりも遥かに莫大な報酬を支払ってしまう。ここに、文明の維持と市場原理の間にある、最大のバグのような緊張状態が存在している。
エントロピーを増やす方が儲かる社会
物理学の厳密な定義とは異なるが、私はこれを「社会のエントロピー(無秩序さ)」の問題として捉えている。
秩序を作るには、膨大なエネルギーと時間が必要だ。研究する。教育する。記録を残す。議論を整理する。制度を維持する。道路を直す。他人の話を最後まで聞く。間違った情報を丁寧に訂正する。
反対に、秩序を散らかすことは一瞬でできる。文脈を切り取る。極端な言葉を投げつける。相手を怒らせる。「専門家は嘘をついている」と陰謀論を叫ぶ。
石を一つ置くのには何年もかかるが、すでにある巌を蹴っ飛ばして大きな音を立てるのは一瞬だ。
もし社会の報酬表が、「最も大きな音を出して散らかした人に、最も大きなお金を払う」という設定になってしまったら、どうなるだろうか。
もちろん、人間全員が明日から一斉に煽り屋になるわけではない。人はお金だけで動いているわけではないからだ。
しかし長い年月をかければ、その報酬表は確実に社会の人材配分を歪めていく。子供たちは、大人たちが口先で語る道徳など聞いていない。「社会が実際に誰に報いているのか」という現実の報酬表を、冷徹に見つめている。
「地道に研究しなさい」と教えられながら、基礎研究者が非正規雇用で苦しむ姿を見る。
「相手を尊重しなさい」と教えられながら、他人を侮辱したインフルエンサーが100万再生されて大金を稼ぐ姿を見る。
そのとき、社会が次世代に教えている「本当のメッセージ」とは何なのだろうか。
市場は「社会的価値」を測るメーターではない
誤解してほしくないが、私は資本主義や市場を悪者にしたいわけではない。
市場には、人が何を欲しているか、どこに需要があるかを素早く可視化する卓越した能力がある。
問題なのは、「市場価格」と「社会的価値」を完全に同一視してしまうことだ。
100万回再生された真偽不明の動画が、100回しか読まれなかった査読論文よりも「正しい」わけではない。何億円も稼ぎ出した仕事が、年収500万円の仕事よりも「社会に必要とされている」とは限らないのだ。
事故を未然に防いだ人。システムの不正をブロックした人。インフラを静かに保守し続けている人。地味な基礎研究を何十年も続けた人。次の世代を根気よく教育した人。
彼らの仕事の成果は、しばしば「何も起きなかった」ことそのものに宿る。しかし「今日は何も起きませんでした」という事実は、YouTubeのサムネイルにはならないし、市場で高値で売ることも難しい。
市場のメカニズムでは直接測りにくい価値が、社会には底を支えるように大量に存在している。だからこそ文明は昔から、市場だけでは報いきれない活動に対して、「学位」「名誉」「公的研究費」「文化財保護」といった別の報酬装置を意図的に設計してきたのだと思う。
文明とは、人間の時間軸を引き延ばす装置
人間がもし本当に、「死んだらすべて終わり。だから自分が生きている今この瞬間だけ、自分だけが最大限得をすればいい」という短い時間軸だけで生き始めたら、社会はあっという間に崩壊する。
だから多くの文化は、人間の判断基準を「個人の寿命より長い時間」へと接続しようと試みてきた。先祖、子孫、家、国、歴史、名誉、あるいは死後の世界。
宗教的な真偽は別として、「自分が死んだあとにも、この社会は続いていく」という感覚を人々に持たせることには、明確な社会的機能があった。
自分が生きている間には使い切らない森を守る。自分の代では完成しないサグラダ・ファミリアのような大聖堂を造る。自分が生きているうちには結論が出ないかもしれない基礎研究を始める。顔も名前も知らない未来の人々のために、黙々と記録を残す。
文明の歴史には、短期的な個人の合理性(コスパやタイパ)では到底説明のつかない、こうした奇妙で尊い行為が大量に折り重なっている。
文明とは、一回限りの短い人生を生きる個人たちに、「はるかに長い反復ゲームへ参加しているかのように振る舞わせる装置」のことなのかもしれない。
「少数の精鋭」だけでは社会はもたない
AIがさらに発達すれば、知的生産の構造は劇的に変わる。
これまで膨大な人手を要した知識の収集・整理・計算を、ごく少数の超優秀な精鋭がAIを駆使して一気に進める時代になるかもしれない。「最先端の研究は、少数の天才とAIに任せておけばいい」という考え方も出てくるだろう。
しかし、それでも「一般社会の知性」は決して不要にはならない。むしろ、AI時代においてこそ死活的に重要になる。
どんなに優秀な精鋭が「この点はまだ科学的に分かっていません」と誠実に説明しても、それを受け取る一般社会の側が「じゃあ、ネットのインフルエンサーが言っていたオカルト説と五分五分だね」と判断してしまうようでは、せっかくの科学知識を社会実装できないからだ。
研究者がどれほど優秀でも、知識を受け取る側に「何百年も積まれた巌」と「平地に立てただけの旗」を見分けるリテラシーがなければ、社会は機能しない。
さらに言えば、次の世代の天才たちは、空から降ってくるわけではない。学校で学び、本を読み、好奇心を育てられた一般社会の土壌の中から生まれてくるのだ。一般社会の知的土壌が痩せ細れば、いずれ次世代の精鋭を生み出すことすらできなくなる。
AIは「未来」を先回りして観測できない
AIは、私たちが石を運ぶ作業を劇的に助けてくれるだろう。既存の文献を検索し、翻訳し、要約し、コードを書き、大量の知識を繋ぎ合わせてくれる。
しかし、AIにも決定的にできないことがある。それは「まだ起きていない未来を観察すること」だ。
新しい薬を20年間使い続けたときの人体への影響を知りたければ、現実の時間が20年経過するのを待つしかない。新しい教育制度がどんな社会を作るのかは、その子供たちが大人になるまで分からない。
AIは過去の情報を光の速さで処理できても、未来の観測結果を先回りして生成することはできないのだ。
一方で、AIを使えば「専門家が書いたようなもっともらしい文章(=旗)」を大量生産するコストは限りなくゼロに近づく。
「旗を立てるコスト」は急激に下がるのに、「巌を形成する速度」には現実世界という絶対的な速度制限が残る。この非対称性こそが、これからの情報社会における最大の脅威になる。
だからこそAI時代には、文章が流暢か、自信満々に断言しているかではなく、「その足元にどんな石(根拠)が積まれているのか」を透かし見る力が、かつてなく重要になる。
石を置く人が、損をするだけの社会にしない
ここまで考え抜いて、私が本当に気になっていたのは、個々人の振る舞いや道徳の低さではないのだと確信した。
OnlyFansで稼ぐアスリートを責めたいわけではない。SNSで目立ちたい若者を叩きたいわけでもない。
私が最も危機感を抱いているのは、「その人がその行動を選んだとき、社会は『何』を報酬として返すのか」というシステムそのものについてだ。
大きな金、名誉、自由、社会的地位、注目、フォロワー。
それらは今、誰に向かって支払われているのか。
反対に、地味な保守、検証、教育、記録、対話、事故の予防。そうした「何も起きないこと」を支える仕事には、何が返されているのか。
社会が口先で語る綺麗事よりも、この冷酷な「報酬表」の方が、人間の行動と社会の未来を根底から作り変えてしまう。
だとすれば、私たちが目指すべき健全な文明とは、「道徳的な善人を増やす社会」ではない。
「社会に長期的な価値を残す行動をとった人ほど、その本人にも正当な利益が返ってくる社会」であるべきだ。逆に、社会的な損失(エントロピーの増大)を他人に押し付けながら、自分だけが一瞬の注目と利益を掠め取るような振る舞いには、その損失に応じたペナルティが返る仕組みが必要なのだ。
税、規制、社会保障、公共投資、教育費、文化保護。これらはすべて、市場がつける「自然な値札」と、文明が存続するために「望ましい値札」とのズレを調整するための、人類の知恵の結晶である。もちろん完璧ではないし、制度が腐敗することもある。それでも人類は、ずっと「何に報いるべきか」を調整し続けてきた。
一人の人間にできることは、あまりにも小さい。一度に一つの石しか置けない。
しかもその石は、自分が生きている間には立派な巌にならないかもしれない。それでも百年後、千年後、顔も名前も知らない未来の誰かが、その石の上の少し高い場所から、世界を見渡すかもしれない。
文明というものが存在するとすれば、それはそういう途方もない時間差の共同作業なのだろう。
だから社会を守るということは、自分一人で何か巨大なものを築き上げることではない。
「石を一つ置こうとする人が、『こんなことをしても損をするだけだ』と絶望せずに済む報酬表を残すこと」なのだと思う。
未来のために研究を続ける人。フェイクの中で事実を確かめる人。誰も見ていない場所でインフラを保守する人。次の世代を教育する人。相手の罵倒に乗らず、対話を途中で投げ出さない人。
彼らが、派手に散らかして稼ぐ人間よりも大金持ちにならなければならない、とまでは言わない。しかし、「秩序を作る人が、秩序を壊して注目を集める人よりも『確実に損をする』という報酬表」を、この社会の当たり前にしては絶対にいけないのだ。
石を一つ置くのには時間がかかる。巌を蹴っ飛ばせば、一瞬で大きな音がする。
だからこそ、文明には「音の大きさ」や「傾きの鋭さ」とはまったく別の尺度が必要になる。
その人の行為は、未来に何を残すのか。
次の人が、その足場の上に立てるのか。
自分がいなくなったあとにも、この世界をほんの少しだけ使いやすくしているのか。
私が日頃から漠然と考えている「愛」というものの正体も、突き詰めれば案外、こういうことなのかもしれない。自分の瞬間的な損得だけでなく、自分の後に続く誰かが立てる場所を、ほんの少しだけ残しておくこと。
人間は、一度に一つの石しか置けない。
だからこそ、そのたった一つの石を黙々と置く人が、次の世代にも絶滅せずに生きていけるような「報酬表」を設計すること。
それこそが、この散らかった時代に私たちが未来へ残すべき、最も重要な仕事なのだと思う。