結婚式というものが、昔から少し苦手だった。
別に、結婚そのものを否定したいわけではない。
愛し合う人たちが、一緒に生きていこうと決めること自体は、とても自然で、美しいことだと思う。
でも、結婚式になると、急に空気が変わる。
招待状が届く。
そこには、当然のように「出席・欠席」が書かれている。
不思議だなと思う。
例えば、宗教儀式や、地域のお祭りや、音楽フェスなら、まず「その文化が好きか」「その空気に耐性があるか」が前提にある。
でも結婚式だけは、「新郎新婦との関係」があるだけで、一気に共同体イベントへ接続される。
祝福。
拍手。
笑顔。
ご祝儀。
スピーチ。
集合写真。
そこでは、「おめでとう」が、半ば共通言語として要求される。
もちろん、本当に心から祝福している人もたくさんいる。
でも、その空間に少しでも馴染めない人間にとっては、あの場はかなり特殊だ。
「楽しいですよね?」
「祝福しますよね?」
「参加しますよね?」
という、言葉にならない前提が、空気中に漂っている。
しかも厄介なのは、それが“善意”の顔をしていることだ。
怒鳴る人はいない。
脅迫されるわけでもない。
けれど、少しでも温度がズレると、自分だけが共同体の外周に立たされたような感覚になる。
以前、職場のAさんの結婚式に、私だけ出席しなかったことがある。
一年後くらいだっただろうか。
歓迎会の席で、上司が「Aさんの式はよかった」「センスがよかった」と褒めていた。
すると別の上司が、何気なく、「(私)さん以外は参加したんです」と補足した。
責められたわけではない。
悪意もなかったのだと思う。
でも、その瞬間、
「こちら側」と「あちら側」に線を引かれた感じがした。
しかも、この種の苦しさは説明が難しい。
もし、「その言い方、嫌です」と言えば、
「そんなつもりじゃない」
「被害妄想では?」
「空気悪くしないで」
となるだろう。
最近、若い人が飲み会やイベントを避けることについて、「コミュ力が低い」と言われることがある。
「お酒が弱くて」
「予定があって」
「お金が厳しくて」
そうやって、若い人は、社会が理解できる理由に翻訳して欠席する。
でも、本当は、
「共同体の空気に飲み込まれる感覚が怖い」
「また、自分より空気が優先される感じが苦しい」
「普通に同期できない自分が露出するのが怖い」
そういう、もっと深い理由を抱えている人もいるのだと思う。
でも、本当は逆なのかもしれない。
人の境界線に敏感になった社会。
無理に同じ温度にならなくてもいい、と少しずつ思い始めた社会。
その途中で、
昔は「当たり前」だった共同体儀式が、少しずつ「圧」として見え始めている。
そんな時代なのかもしれない。

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