AI時代の人間は、管理された水槽の中で泳ぐメダカのようなものかもしれない。
そんなことを、前回の日記で書いた。
AIが選択肢を並べる。
AIが文章を整える。
AIが検索結果を出す。
AIが相談相手になる。
AIが「こう考えるといいですよ」と、やさしい声で水流をつくる。
そう考えると、私たちはこれから、AIという見えない水槽の中で泳ぐ生き物になっていくのかもしれない。
でも、書いたあとで、少し引っかかった。
いや、私たちは本当に、これから水槽に入るのだろうか。
むしろ、水槽は昔からあったのではないか。
人間は、いつの時代も、「自分の理解や判断が及ばない大きな仕組み」の中で生きてきた。
江戸時代の農民にとって、「商い」はかなり不思議なものだったのではないかと思う。
自分たちは米を作る。
土を耕し、天気を見て、汗をかいて、収穫する。
そこには身体がある。
疲れがある。
季節がある。
でも、商人は少し違う。
どこかから物を仕入れ、どこかへ運び、値段をつけ、差額で利益を出す。
人と人、村と町、藩と藩、貨幣と品物のあいだを動きながら、お金を生み出していく。
それは農民から見れば、現代人が巨大IT企業のアルゴリズムを見るような感覚に近かったのかもしれない。
何をしているのか、完全には分からない。
でも、その仕組みは確かに社会を動かしている。
自分の生活にも影響している。
もっと昔にさかのぼっても、同じことは言える。
租庸調。
律令国家。
荘園。
年貢。
村落共同体。
身分制度。
土地の境界。
暦。
税。
治水。
街道。
田んぼを耕している人の手元には見えなくても、暮らしの背後には、いつも自分ひとりでは動かせない大きな仕組みがあった。
人間は、ミクロな存在だ。
ご飯を食べる。
働く。
買い物をする。
誰かと話す。
疲れて寝る。
たまに怒る。
たまに笑う。
その生活はとても小さい。
身体の届く範囲でしか生きられない。
けれど、人間の暮らしは、頼んだ覚えのない巨大なマクロ構造の上に、いつの間にか乗せられてきた。
つまり、水槽は昔からあった。
ただ、その水槽の素材や、水の流れ方が、時代ごとに変わってきただけなのだと思う。
昔は、年貢や市場や村落共同体が水槽だった。
近代は、国家や会社や鉄道や新聞が水槽だった。
現代は、石油や金融やインターネットやプラットフォームが水槽になった。
そしてこれからは、AIが水槽の一部になっていく。
現代の私たちも同じだ。
私たちは、毎日パソコンを使って仕事をしている。
でも、そのパソコンの仕組みを本当に理解しているわけではない。
Windowsがどう動いているのか。
クラウドがどこにあるのか。
通信がどのルートを通っているのか。
半導体がどこで作られ、どの船に乗って、どの倉庫を経由してここまで来たのか。
ほとんど分からない。
でも、それがないと仕事にならない。
インターネットが止まれば、仕事は止まる。
Microsoftのサービスが止まれば、会議も資料もメールも止まる。
クラウドが止まれば、会社も役所も学校も病院も、かなり困る。
私たちは、自分の机の前で作業しているつもりで、実は地球規模の水流の上に乗っている。
石油もそうだ。
普段、石油のことを考えて暮らしている人は少ない。
けれど、食べ物も、服も、プラスチックも、物流も、農業も、発電も、かなりの部分が石油に支えられている。
地球の反対側にある細い海峡が通れなくなるだけで、世界中が揺れる。
ガソリン代が上がる。
物価が上がる。
物流が乱れる。
生活の空気が変わる。
私たちは近所のスーパーで買い物をしているだけなのに、その背後には、海峡、タンカー、軍事、外交、金融、為替、保険、港湾、物流がある。
自分の手元には見えない。
でも、確実に自分の生活を動かしている。
変わるのは、水槽があるかどうかではない。
水の流れ方だ。
これまでの水流は、土地、税、労働、物流、金融、エネルギーのように、主に暮らしの外側を動かしていた。
もちろん、現代に近づくにつれて、その水流はどんどん見えにくくなっていった。
税負担は、社会保険料や再エネ賦課金のような形で、生活の中に薄く溶けていく。
アルゴリズムは、おすすめや検索結果や価格表示の中で、こちらが気づかないうちに選択肢を並べ替える。
マクロは、時代を経るほど、だんだん無色透明になっていく。
そしてAIは、その流れをさらに進める。
では、AIは何が新しいのか。
それは、AIが生活の外側だけでなく、内側にまで入ってくることだと思う。
石油は、私たちの移動や物流を支えている。
金融は、生活コストや資産を左右する。
インターネットやOSは、仕事の環境をつくっている。
でもAIは、もう少し内側に来る。
何を調べるか。
どの情報を見るか。
どう文章を書くか。
どう説明するか。
どの選択肢を比べるか。
悩んだとき、どう考えるか。
自分の感情を、どう言葉にするか。
そこにAIが入ってくる。
AIの水流は、どこかから強く押してくるというより、言葉や判断や納得の仕方そのものを、空気のように満たしていく。
気づいたときには、私たちはその空気を吸いながら考え、その水流に乗りながら「自分で選んだ」と感じているのかもしれない。
それはとても便利だ。
たぶん、かなり快適だ。
でも、快適すぎる水流は、いつの間にか自然に見えてしまう。
自分で選んだと思っていたものが、実は選びやすく並べられていただけかもしれない。
自分で考えたと思っていた言葉が、実はAIの水流に少し整えられていたのかもしれない。
自分で納得したと思っていた答えが、実は納得しやすい形に加工されていたのかもしれない。
だからといって、すべてを疑って生きるのもしんどい。
水槽があるから泳げる。
水流があるから酸素が回る。
餌が落ちてくるから生きられる。
水槽を疑い続ければ、メダカは自由になるのではない。
水槽の中にいながら、泳ぐことも、餌を食べることもできなくなる。
そして、底床の砂のすき間に挟まったまま、静かに星になる。
それは脱出ではなく、停止だ。
だから必要なのは、水槽の中の世界を疑い続けることではないのだと思う。
水槽の中で泳ぎながら、たまに水面の向こうへ想像を伸ばすこと。
この水は、どこから来ているのだろう。
この餌は、誰が落としているのだろう。
この水流は、自然なのだろうか。
それとも、誰かがポンプで回しているのだろうか。
それくらいでいいのかもしれない。
それでも今日も、泳ぐ。
餌も食べる。
水草の間も抜ける。
仕事もする。
文章も書く。
AIにも相談する。
ただ、ときどき水面を見上げる。
光はどこから来ているのか。
この流れは、誰がつくっているのか。
私は本当に、自分の力で泳いでいるのか。
そんなことを考えながら、それでも泳ぐ。
マクロに従うためではなく、マクロを憎むためでもなく。
ときに対処し、ときに受け流し、ときに捌きながら、その水流すら、宇宙の中に生まれた一つの成り行きとして受け止める。
たぶん、それくらいが、ミクロな人間にできる、マクロと共に生き、宇宙と呼吸を合わせる「作法」なのだと思う。

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