止まっていた日記と、ビオトープの話


気づいたら、ひと月以上、日記を書いていなかった。

前は、書かずにはいられなかった。
頭の中で何かが立ち上がって、それを言葉にしないと落ち着かないような、あの感じ。
宇宙の話でも、身体の話でも、社会の歪みでも、何でもよかった。
とにかく、「分かった気がする」という瞬間があって、それを書き留めていた。

でも、最近はそれがない。

いや、正確に言うと、「分からなくなった」わけではない。
むしろ逆で、ある程度分かってしまったというか、
「まあ、そんなものだよね」というところに落ち着いてしまった。

人間はこういうものだし、社会もこういう構造だし、
自分の感情も、ある程度はコントロールできる。

だから、強い怒りも湧かないし、
「これは書かなければ」と思うほどの衝動も起きない。

少し前の自分から見たら、
それは「落ち着いた」と言えるのかもしれないし、
別の言い方をすれば、「どうでもよくなった」に近いのかもしれない。


その代わりに、最近やっているのが、ビオトープだ。

ビオトープというのは、本来は生態学の言葉で、
生き物が集まって暮らす「環境のまとまり」みたいな意味らしい。

言葉の由来も、bio(生命)とtope(場所)で、
もともとはかなり広い概念だ。

それが日本では、1990年代ごろから、
環境保全や里山再生の文脈で使われるようになって、
田んぼや湿地のような、自然と人の手が混ざり合った風景を指す言葉として広まっていった。

さらに最近だと、2010年代くらいからか、
もっとスケールが小さくなって、
ベランダの睡蓮鉢やプラケースでメダカを飼うようなものも、
「ビオトープ」と呼ばれるようになっている。

スケールはどんどん縮んでいるけれど、
やっていることはたぶん同じで、
「生き物が成立する環境を丸ごと置く」という発想なんだと思う。

自分がやっているのも、その延長線にある。

ベランダにトロ船を置いて、水を張って、石を組んで、植物を植える。
メダカが住める環境を考えて、水の流れを作って、
塩ビパイプでオーバーフローを組んで、複数の容器をつなげたりする。

やっていることは、ただのDIYだし、
専門の人が見たら突っ込みどころだらけだと思う。

でも、これが面白い。

たぶん、SimCityに近い。

「こういう世界を作りたい」というイメージがあって、
それを現実の中に配置していく。

病院を置いたり、学校を作ったり、観光施設を置いたり、
大まかな方向は自分で決めている。

でも、そのあとどうなるかは、自分の手を離れる、というより、
そもそも最初から、全部は自分のものではない。

住民がどう動くのか、どこで渋滞が起きるのか、
火事が起きるのか、病気が流行るのか。

プログラムとしては決まっているはずなのに、
人間の側から見ると、ほとんど予測できない。

それはランダムだからではなく、
むしろ逆で、あまりに法則通りすぎて、追いきれないだけなのかもしれない。

ビオトープも、それに似ている。

水は重力に従って流れるし、
汚れは勝手に溜まるし、
バクテリアは見えないところで働いて、
植物は枯れるときは枯れる。

一滴一滴の水は、分子レベルではすべて法則通りに動いているはずなのに、
全体として見ると、思い通りにはならない。

すでに動いている世界があって、
自分にできるのは、その配置をほんの少しだけいじることくらいだ。

それでも、流れが変わったり、環境が安定したり、
小さな変化がちゃんと起きる。

だからこそ、面白い。


そしてもう一つ、気づいたことがある。

自分は、「完成」にはあまり興味がない。

うまく回り始めたビオトープを眺めている時間よりも、
どう流すか、どう繋ぐか、どう安定させるかを考えている時間の方が、ずっと楽しい。

作りたいと思っているときが、一番楽しい。

苦しいけど、楽しい。

できてしまうと、少し熱が引く。

これはたぶん、昔からそうで、
思索も同じだったのかもしれない。

答えにたどり着いた瞬間よりも、
「分かりそうだ」という手前の状態の方が、ずっと熱があった。


日記が止まった理由も、そこにある気がする。

前は、「分かりそうだ」という状態が続いていた。
だから、書き続けられた。

今は、いくつかのことに対して、
「まあ、そういうものだ」と思えてしまう。

その分、衝動は弱くなった。

でも、その代わりに、
現実の方に戻ってきた感じがある。

土を触って、水を触って、手を動かす。

考える内容も、宇宙の始まりではなくて、
「どうすれば水が濁らないか」とか、
「この植物はどこに置くといいか」とか、
そういうものに変わった。


思索と現実は、別のものだと思っていた。

でも、今はそうでもない気がしている。

言葉でどれだけ考えても、
水は低い方にしか流れないし、
生き物は環境に適応するしかない。

その単純な事実の中に、
むしろ、ずっと考えていたことの答えが含まれているようにも思える。

それは偶然ではなく、
宇宙そのものが、最初からそういうルールで動いているからなのかもしれない。

完全に秩序的で、すべてが法則通りに進んでいるのに、
その全体は、人間には読みきれない。

だから、自然は「自然」に見える。


日記が止まっていたのは、停滞ではなくて、
少し場所が変わっていただけなのかもしれない。

頭の中から、手の中へ。

すでに動いている世界の、配置をいじる。

そんな感じで、しばらくはやっていこうと思う。

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