40代以降になって「子どもを持たなかった」という事実が急に突き刺さる

Xで「40代になって子どもを持たなかったことの痛みが突き刺さる人がいる」というポストを見かけた。

それに対して、いろんな人が意見を書いていた。
子どもが人生の意味だという人。
それは違うという人。
人間の本能や進化の話をする人。

読んでいて、少し面白い感覚があった。

それぞれの人が、同じテーマについて話しているようでいて、
実はそれぞれ違う階層の話をしているように見えたからだ。

子どもとは何か。
人生の意味とは何か。
痛みとは何か。

それらは単純な一つの答えで説明できるものではない。

最近、自分の中では、人間や文明を
「残響発酵文明モデル」として考えている。

人間は、何もないところから思考を生み出しているわけではない。
身体の記憶、社会の文化、他人の言葉、過去の経験、
そういうものの残響が頭の中で混ざり合って、
思考や感情が立ち上がってくる。

文明も同じだと思う。

地球文明という巨大な発酵槽の中で、
国家、地域、家庭、個人という
大小さまざまな発酵槽が入れ子になっている。

そこに入ってきた情報や経験は、
それぞれの容器の中で熟成し、
少し形を変えて外に出ていく。

子どもというのも、その発酵の流れの一つだ。

遺伝子という意味もあるし、
家庭文化という意味もあるし、
社会の価値観という意味もある。

ただ、それは唯一の出口ではない。

言葉も、思想も、制度も、
すべて文明の中で発酵し、次の世代へと流れていく。

だから「子どもがいないと意味がない」という話も、
「子どもなんて関係ない」という話も、
どちらも少し単純すぎるように感じた。

人間の「痛み」も、
単純に一つの原因で生まれるわけではない。

むしろ、人生の中で信じていた意味が、
どこかで発酵を止めてしまったとき、
その空白として現れるものなのかもしれない。

40歳になって急に痛みが生まれるというより、
それまで自分の中で熟成していた価値観が、
ある瞬間に形を変える。

そのとき、人は
「あれ、人生の回答ってなんだったんだろう」
と立ち止まるのかもしれない。

でも、文明の発酵という視点から見ると、
人生の回答は、どこかに一つだけ存在するものではない。

人はみんな、
文明の残響を受け取り、
それを自分の中で少し変えて、
また世界に放出している。

それだけでも、
この巨大な発酵槽の中では、
十分に意味のある営みなのかもしれない。

今日、そんなことを考えた。

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