「一人で生きている」と思っていても、実際には無数の他人の労働の上に浮かんでいる。

動画を見ていて、最初は「なるほどな」と思っていた。

孤独は幻想。
人はバイオロボット。
恐怖は脳が作る物語。

たしかにそういう側面はあるのだろう。

でも、途中から、なんだか妙な引っかかりが残った。

それは、「孤独の快適さ」が、あまりにも当然の前提として語られていたことだった。

今の時代、たしかに一人は快適だ。

自治会は面倒。
近所づきあいは重い。
詮索されるのはイヤ。
会社の飲み会も苦痛。

東京のマンションに住めば、誰にも干渉されずに生きられる。
コンビニもある。
Amazonも来る。
AIも話し相手になってくれる。

昔よりずっと、人間は「孤独で快適」に生きられるようになった。

でも、それって本当に「脱ピラミッド」なんだろうか。

むしろ逆で、
超巨大なピラミッド文明が、
エッセンシャルワークからインフラから物流から法秩序まで全部支えてくれているからこそ成立する、
「最高級の孤独」なのではないか。

個人的孤立と、社会的非依存は、まったく別だ。

「一人で生きている」と思っていても、
実際には無数の他人の労働の上に浮かんでいる。

だから最近の「孤独最高」「好きなことで生きる」「自由に生きる」みたいな言葉に、
どこか中途半端さを感じることがあった。

本当にピラミッド社会を完全否定するなら、
電気も物流も所有権も法も捨てなければならない。

でも実際には、
その恩恵は最大限受けながら、
精神だけ「自由になった気分」を味わっている。

もちろん、それが悪いと言いたいわけじゃない。

むしろ、人類はここまで文明を発達させたからこそ、
ようやく「孤独が快適」と感じられる地点に来たのだと思う。

たぶん現代人は、
孤独が好きになったというより、
濃すぎる群れが苦手になった。

田舎の相互監視、
自治会、
同調圧力、
空気。

そういうものに疲れた結果として、

「誰かは近くにいる。でも深くは関わらなくていい」

という、「匿名の群れ」としての都市へ集まっている。

東京って、
孤独を消す場所ではなく、
孤独を快適にする装置なのかもしれない。

そして、ここまで考えて、
結局、人間はずっと振り子をやっているのだと思った。

個人を抑え込むことで文明が強くなる。
文明が強くなることで個人の自由が広がる。
自由が広がることで、また集団の力が弱まる。

古代ローマも、
今の日本も、
案外、同じ循環の途中にいるのかもしれない。

SNSを見ていると、
「全部支配だ!」
「完全に自由になれ!」
みたいな極論ばかり伸びる。

でも実際の人生って、
もっと静かで、
もっと中途半端で、
もっと調整の連続だ。

全部を社会に任せるわけでもない。
全部を自分一人で抱えるわけでもない。

変えられない条件を受け入れながら、
それでも変えられる部分を少しずつ選び直していく。

本当に生活している人ほど、
その「中庸の難しさ」を知っている気がする。

だから案外、
本当にバランスを掴み始めた人は、
SNSであまり叫ばないのかもしれない。

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