最近、ずっと引っかかっていることがある。
世の中には、
「支配者がいる」「ピラミッド社会から抜け出そう」
とか、
「思考が現実をつくる」「ワクワクに従って生きよう」
という話がたくさんある。
一見すると、支配者やピラミッド社会は冷たく非人間的で、引き寄せやワクワクは人間的に見える。
でも、最近ふと思った。
むしろ逆なのではないか、と。
たとえば、「好きなことだけをして生きる」という思想。
聞こえはすごく良い。
でも、それって本当に“人間的”なのだろうか。
なぜなら、人間社会って、本来かなり泥臭いからだ。
嫌な上司。
面倒な会議。
税金。
インフラ維持。
誰かの機嫌。
ルール。
調整。
我慢。
労働。
つまり、「思い通りにならない他者」と一緒に生きる世界。
ピラミッド社会というのは、確かに不公平だし、息苦しい。
親ガチャもある。
格差もある。
ルールは強者寄りだ。
でも、こうした共通の舞台というある種のピラミッドがあるからこそ、人は「他者と同じ舞台」に立てる。
一方で、全員が、自分のワクワクだけに従う世界は、どうだろう。
そこでは、一人ひとりが、自分だけの現実を作っていく。
でも、その世界観って、よく考えるとかなり「非身体的」だ。
「思考が現実をつくる」
「意識が世界を変える」
「波動を上げる」
こういう言葉は、一見すると自然回帰や人間回帰に見える。
でも実際には、「現実の摩擦」や「他者との衝突」や「身体的制約」を、どこかノイズとして扱っている感じがある。
むしろ、
「嫌な現実を消したい」
「好きなものだけを選びたい」
「自分の波長に合う人だけと繋がりたい」
という方向に進んでいく。
それって、どちらかというと情報空間的な発想ではないだろうか。
最近よく言われる「ムーンショット」や、「魂がデジタル空間に閉じ込められる」という陰謀論があるけれど、皮肉なことに、「ワクワクだけで生きる」という思想の方が、よほど身体から離れていく価値観に見えることがある。
逆に、ピラミッド社会の方が、
腹が減る。
働かなければならない。
他者とぶつかる。
面倒な人間関係がある。
でも協力しないと生きられない。
という、超・三次元的な世界だ。
つまり、支配的で冷たいと言われるピラミッド社会の方が、実はかなり「地に足がついている」。
もちろん、だからといって今の競争社会を肯定したいわけではない。
ただ、「好きなことだけをして生きる」が、本当に人間らしい世界なのかについては、かなり疑問がある。
人間というのは、本来、
面倒で、
不完全で、
他者と衝突しながら、
でも時々分かり合って、
同じ舞台で笑ったり悔しがったりする生き物なのではないか。
もし「完全に自分だけの世界」を目指し始めたら、そこには自由より先に、巨大で静かな孤独が待っている気がする。
だから最近は、「ピラミッドを壊すこと」よりも、「ピラミッドの中で、どう、自分らしさをどう保つか」の方が、ずっと大事なテーマなんじゃないかと思っている。

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