好きなことで生きていく世界は、ピラミッド社会を前提としている

最近、「一人ひとりが自分の好きな現実を創造する世界」とか、「好きなことだけをして生きる」といった思想について考えていた。

一見すると、とても自由で、優しくて、理想的に聞こえる。

でも、どこか引っかかるものがあった。

なぜだろう、と考えていて、ふと思った。

それって、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」と同じではないか、と。

もちろん、殴り合いや戦争の話ではない。
もっと静かな意味での「自然状態」である。

つまり、全員が「自分の好き」を最優先し、自分の世界の中だけで生きている状態。

でも、その世界では、本来、自分の「好き」を受け止めてくれるはずの他者もまた、「自分の好き」を勝手にやっているだけの存在になる。

すると、世界は無限に分散していく。

誰もが、自分だけの競技を作り、
自分だけのルールで、
自分だけのオリンピックを開催する。

そして80億人が、80億種目で金メダルを獲得する。

でも、それって、どこか、いや、完全に虚しい。

なぜなら、本来スポーツが人を感動させるのは、「共通のルール」と「限られた頂点」があるからだ。

皆が同じ土俵に立ち、同じ条件の中で、泣いたり、負けたり、勝ったりする。

だからドラマになる。

だから観客は、そこに感情移入する。

大谷翔平がホームランを打つとき、そこには単なる個人の快楽以上のものがある。

何万人、何億人もの「見ている人」がいて、共通のルールがあり、「すごい」という感覚が共有されている。

つまり、ピラミッドには残酷さもあるが、同時に「共通の熱狂」を生む装置でもある。

もちろん、現代の競争社会は行き過ぎている面がある。

比較、承認、自己責任、SNS疲れ。
ピラミッドの圧力で、押し潰されそうになる人もいる。

だから、「そこから降りたい」と思う気持ち自体は、すごく自然だと思う。

でも、「全員が自分の好きなことだけをする世界」が、本当に豊かな世界かというと、そこにはかなり疑問が残る。

なぜなら、人の「好き」は、他者との関係性の中で立ち上がるからである。

だから本当は、人が求めているのは、「好きなことだけをする世界」ではなく、「自分の好きが、誰かに受け取られる世界」なのだろう。

そして、そのためには、ある程度の共通のルールや舞台、つまり「ピラミッド」が必要になる。

それを全部「ピラミッドだから悪」と切り捨ててしまうと、最後には、

「私は私の世界をやります」
「あなたはあなたの世界をやってください」

という、巨大で静かな孤独だけが残る気がする。

だから結局、「ピラミッドから完全に抜け出して、自分のやりたいことだけをやる」というのは、社会の代替というより、やはり「趣味」なのだと思う。

趣味だから悪いわけではない。

むしろ、趣味は人生にとってとても大切だ。

ただ、それを「思考が現実をつくる」とか言い始めると、どこかで本当の現実とズレてくる。

人は、完全な自由だけでは生きられない。

同時に、完全な競争だけでも壊れてしまう。

だから本当に必要なのは、「ピラミッドを壊すこと」でも「抜け出すこと」でもなく、巨大な競争の中で疲れすぎないように、でも、適度に頑張りながら、みんなと同じピラミッドの中で生きることなのだろう。

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