最近、ある動画を見た。
内容としては、性別や性のあり方について、よくある誤解に対して丁寧に反論していくもので、全体としてとてもバランスが取れていて、論理的にも納得できるものだった。
「性はグラデーションである」とか、「多様性を認めても社会は崩れない」といった主張は、どれもその通りだと思う。
ただ、見終わったあとに、少しだけ引っかかる感覚もあった。
それは、「正しいこと」が「別の正しさ」を押し返していく構図になっているように見えたからだ。
この動画に限らず、こういう議論はよくある。
一方が「これが正しい」と言い、
もう一方が「いや、こっちが正しい」と言う。
そして、その正しさ同士がぶつかり合う。
どちらも間違っているわけではないのに、
正しさのぶつけ合いが、争いを生んでしまう。
ふと思ったのは、
そもそも「正解」を一点に固定してしまうこと自体に、問題があるのではないかということだった。
人間は本来、グラデーションの存在で、正規分布のように広がっている。
それなのに、その中のある一点だけを「正しい」と決めてしまうと、そこから外れた人は、少しずつズレを感じることになる。
そのズレは、大きく外れた人だけのものではない。
ほんの少しだけズレている人も、
「このくらいなら」と自分を調整しながら生きている。
例えば、50点が正解だとすると、
51点の人は1点分の違和感を飲み込み、
60点の人は10点分の調整をしながら、
「50点のふり」をして生きているのかもしれない。
そうやって、多くの人が小さな嘘を抱えながら、
表面上は「正しい世界」を維持している。
この構造は、性の話に限らない。
「結婚するのが普通」
「家庭を持つのが幸せ」
「こういう人生が正しい」
そういう枠組みの中で、本当は違う生き方をしたい人が、少しずつ自分を曲げていく。
その結果として、
違和感や無理が、別の形で現れてくることもある。
だから、「例外を認める」ということは、
単に少数派を救う話ではないのだと思う。
それは、全体の自由度を上げることでもある。
一点に固定された正解から、少しだけ幅を持たせることで、
多くの人が、無理をしなくて済むようになる。
ただ、この話を「正しさ」として提示してしまうと、また同じ構図に戻ってしまう。
「多様性が正しい」という言い方をした瞬間に、
それは別の「一点の正解」になってしまう。
そして、また別の正しさとぶつかる。
もしかしたら、大事なのは「どちらが正しいか」を決めることではなくて、
「正解を一点に固定しない」という視点そのものなのかもしれない。
人間はグラデーションでできている。
その前提に立てば、
ズレはあって当たり前だし、
違和感があるのも自然なことになる。
そして、そのズレを無理に消そうとしないことが、
結果として、争いを減らすことにつながるのではないかと思う。
正義と正義がぶつかり続ける世界から、
少しだけ距離を取る。
どちらかを否定するのではなく、
そもそも「一点の正解」という考え方から降りてみる。
そのほうが、少しだけ呼吸がしやすい世界になる気がしている。

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