BON-SAI-TAMA ― 都市文明そのものが、巨大な「盆栽」になり始めている ―

最近、YouTubeで盆栽の動画を見た。

正直に言うと、私はそれまで盆栽に対して、かなり浅いイメージしか持っていなかった。

なんとなく、

「最初から小さく育つ木を、ちょっと剪定して整えたもの」

くらいに思っていたのである。

しかし、実際の盆栽は全然違った。

普通の木を、何年も何年もかけて、「人間が望む姿」へ近づけていく。

根を切る。
枝を落とす。
針金で無理やり曲げる。
鉢を小さくする。
わざと貧栄養気味にする。

しかも、それを一回やって終わりではない。

毎年、毎年、少しずつ。

木は本来、大きく伸びようとする。
根を広げ、枝を空へ伸ばし、太陽を求める。

しかし盆栽では、そのエネルギーを、人間が丁寧に編集していく。

その動画を見ながら、私は途中から、妙な感覚になってきた。

これは、本当に「自然を愛でる文化」なのだろうか。

むしろ、

「自然を、人間にとって望ましい形へ矯正する文化」

ではないのか。

一瞬、纏足のことを思い出した。

もちろん、人間と植物を同列に語ることはできないし、盆栽を否定したいわけでもない。

むしろ、私はあの世界に、かなり強い美しさも感じた。

しかし同時に、

「生命が本来向かおうとする方向」と、「人間が望む形」との間に、静かな綱引きのようなものを感じたのである。

そして、何より衝撃だったのは、盆栽に必要な年月の果てしない長さだった。

盆栽は、完成しない。

何十年もかけて、少しずつ少しずつ、人間が手を加え続ける。

しかも、その作業は暴力的ではない。

毎日ほんの少しずつ、静かに、丁寧に行われる。

それが、妙に怖かった。

一気に破壊するのではなく、

「より美しく」
「より整えて」
「より持続可能に」

という善意の積み重ねによって、木の形が変わっていく。

そのとき、私はなぜか、仕事で見たある言葉を思い出した。

「BON-SAI-TAMA」。

さいたま市の「総合都市交通体系マスタープラン」のコンセプト名である。

最初に見たときは、ただのダジャレだと思った。

盆栽と埼玉を掛けているのだろう、と。

しかし、盆栽動画を見た後に改めてそのパンフレットを見ると、急に違うものに見えてきた。

そこには、巨大な木の上で人々が暮らす未来都市のイラストが描かれていた。

木の枝の上に住宅があり、人々が歩き、ドローンが飛び、電波塔のようなものが都市全体をネットワークで結んでいる。

都市全体は、一つの鉢の中に収まっているようにも見えた。

しかも、不思議なことに、人物たちはみなモノクロだった。

一方で、乗り物やネットワークや都市システムは、カラフルに描かれている。

もちろん、最近の行政パンフレットやスタートアップ資料では、こういう絵柄は珍しくない。

多様性を表現しやすく、主張が強すぎず、令和っぽい。

そういうデザインなのだろう。

しかし、それでも私は妙な違和感を覚えた。

そこでは、人間よりも、「システムの方が主役」に見えたのである。

人々は、交通ネットワークの中に配置された存在として描かれている。

そのイラストを見ながら、私はふと思った。

これは、

「都市を盆栽化する計画」

なのではないか、と。

もちろん、これは陰謀論の話ではない。

私は実際に交通行政の仕事に関わっているので、現場の事情もある程度分かっている。

人口減少。
少子高齢化。
インフラ老朽化。
運転士不足。
財源不足。

高度経済成長期のように、道路も鉄道もバスも、無限に拡張し続けることはもう難しい。

だから行政は、

「限られた資源で、どう維持するか」

を考えざるを得ない。

コンパクトシティ。
拠点集約。
MaaS。
ウォーカブル。
地域公共交通再編。

これらはすべて、

「放っておくと維持できなくなる巨大システム」

を、なんとか生かそうとする試みでもある。

つまり、交通行政がやっていることは、

「支配」

というより、

「剪定」

に近い。

枝を少し落とし、根域を制限し、限られたエネルギーの中で、全体を維持しようとする。

そう考えると、「BON-SAI-TAMA」という言葉は、妙に本質的に思えてくる。

しかも、今の日本は、高度経済成長期のような「若木」ではない。

むしろ老木に近い。

人口は減り、税収は細り、インフラは老朽化し、交通も縮小フェーズに入っている。

そういう時代に、「盆栽」を都市コンセプトとして掲げるのは、かなり皮肉が効いている。

本来、盆栽は、

「大きくなろうとする生命力」

を、人間サイズに収める技術である。

つまり、

「成長を制御する文化」

なのだ。

だから私は、あのコンセプトに少しブラックユーモアを感じてしまった。

「樹勢が落ち始めた巨大な木を、なんとか美しく維持する」

という、今の日本そのもののように見えてしまったのである。

さらに興味深いのは、これが近年の「スマートシティ」思想とも重なることだ。

スマートシティという言葉は、陰謀論界隈では非常に嫌われている。

監視社会。
管理社会。
データ支配。
行動誘導。

そういうイメージを持つ人も多い。

しかし実際には、行政や企業側も、別に「人類を支配したい」と思っているわけではない。

むしろ逆で、

「放っておくと都市が維持できない」

という切実さの方が強い。

だから、

  • 人流を最適化し
  • エネルギーを効率化し
  • 交通をネットワーク化し
  • データで管理し
  • 持続可能性を高める

方向へ進んでいく。

しかし、その結果として、

「人間の自由な揺らぎ」

が減っていく感覚も、確かに存在する。

ここが難しい。

行政側から見れば、「持続可能性のための合理化」でも、住民側から見れば、「生き方の矯正」に見えることがある。

たとえば、

「駅周辺へ集約しましょう」
「徒歩と公共交通中心にしましょう」
「車依存を減らしましょう」

という政策は、合理的ではある。

しかし同時に、「人間が自由に伸びる方向を、望ましい形へ誘導している」ようにも見える。

だから、スマートシティへの不安というのは、単なる被害妄想だけではないのだと思う。

人間は本能的に、「自分が剪定されること」に対して、どこかで違和感を覚える。

それは、盆栽動画を見たときの私の感覚と、どこか似ている。

ただ、一方で、人類は昔からずっと、自然を剪定して生きてきた。

庭園。
茶室。
生け花。
枯山水。
盆栽。

日本文化は特に、「制約された自然」の中に、美を見出してきた。

自由に伸び放題のジャングルではなく、

整えられた余白。
管理された静けさ。
抑制された生命力。

そこに美を感じる文化だった。

だから、都市計画もまた、その延長線上にあるのかもしれない。

巨大化しすぎた都市を、そのまま放置すれば、維持できなくなる。

だから人類は、剪定を始める。

交通を整理し、導線を整え、拠点を集約し、限られた資源の中で全体を保とうとする。

それは、悪意というより、

「老いた文明の庭師仕事」

に近いのかもしれない。

しかし同時に、盆栽には、もう一つの怖さもある。

剪定しすぎた木は、生命力を失う。

形は美しい。

しかし、その美しさは、

自由に山で育った木の美しさとは、少し違う。

私は、あの盆栽動画を見ながら、

「人類は、どこまで自然を編集したがるのだろう」

と思った。

そして、BON-SAI-TAMAのパンフレットを見ながら、

「日本という都市文明そのものが、巨大な盆栽になり始めているのかもしれない」

とも思ったのである。

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