最近、ずっと気になっていることがある。
それは、「まだ言葉になっていない苦しさ」についてだ。
不安とか、恐れとか、違和感とか。
たしかに感じているのに、うまく説明できないやつ。
説明しようとすると、途端に薄っぺらくなる感覚。
そういうものは、昔からまずスピリチュアルが拾ってきたんだろうな、と思う。
「波動が合わない」とか、「エネルギーを吸われる」とか。
正確かどうかはともかく、
少なくとも「それ、あるよね」という体感だけは、ちゃんと掬い上げている。
そのあとで、時間をかけて、
心理学とか社会学とかが、少しずつ言葉にしていく。
感情労働とか、同調圧力とか、バーンアウトとか。
最初は個人の弱さみたいに扱われていたものが、
「あ、これ構造の問題だよね」と言えるようになるまでには、
だいたいワンテンポ遅れがある。
いまは、その途中にいる感じがする。
説明責任を引き受け続ける疲労とか、
正しさを演じ続ける消耗とか、
場にいるだけで発生する、役割未定義の摩耗とか。
どれも確かにあるのに、
まだピタッと来る言葉がない。
だから人は、
「自分が弱いだけなのかもしれない」と思ってしまうし、
「気にしすぎかな」と自分に言い聞かせてしまう。
でも、それって本当に個人の問題なんだろうか。
思想家の仕事って、
もしかすると、こういう未語彙の違和感を、
社会側の言葉として掘り出すことだったのかもしれない、
と今日は思った。
個人の悩みを救うというより、
社会そのものが抱えている「なんかおかしい」を、
まだ名前のないまま、引きずり出す仕事。
だから思想は、
時代が変わると古くなるし、
同時に、何度も読み返される。
一方で、
自分がどう感じて、どう生きるかというミクロな感覚は、
社会の言葉とは別のレイヤーにあっていい。
社会がまだ名前をつけていないからといって、
その感覚までなかったことにする必要はない。
うまく言えなくていい。
論理的じゃなくていい。
とりあえず、「おかしい」と感じていること自体を、
自分の中で否定しないでおく。
未語彙のあたりをうろうろする、というのは、
たぶんそういうことなんだと思う。
そのうち誰かが、
もっと上手な言葉を与えるかもしれないし、
社会の側が追いつくかもしれない。
でもそれまでは、
ざらざらしたまま、ここに置いておく。
今日はそんなことを考えていた。

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