――りょうさんと雑栗わかるさんのポストを読んで
最近、Xで二つのポストを読んだ。
一つは、りょうさんの
というもの。
もう一つは、雑栗わかるさんの
「Xで発言する意味が薄れてきた。
言うことがない。なんだか空っぽな感じがする」
という趣旨の投稿だ。
どちらも「自由」や「空っぽ」という言葉が出てくるけれど、
向いている方向は少し違うように感じた。
りょうさんの「自由」は、問いの立て方を変えること
りょうさんのポストをいろいろ読んでいると、
彼が言っている「自由」や「楽」は、
「仕事を減らす」とか
「人付き合いを減らす」とか
「責任から逃げる」
といった意味ではないことが分かる。
むしろ、
なぜ自分は、いつも「こうあるべき」と自分を縛っているのか
なぜ「正しさ」や「評価」で自分を測ってしまうのか
そういう、自分の考え方のクセそのものを見ることを大事にしている人だ。
私たちは無意識のうちに、
- ちゃんとしなきゃ
- もっと成長しなきゃ
- 失敗しちゃいけない
- 正しく生きなきゃ
と、自分にルールを課している。
そのルールに従おうとするだけで、
実はかなりのエネルギーを使っている。
りょうさんは、「どうすれば自由になれるか?」と答えを探すよりも、
そもそも、なぜ自分は「自由でなければならない」と思っているのか?
その考え方は、本当に自分のものなのか?
と、問いの立て方そのものを見直そうとしている。
彼はこれを「次元をずらす」と表現している。
「見ている土俵を変える」「考え方の前提を一度外す」という意味だろう。
そうやって、自分を縛っている基準から一歩離れると、
頭の中のノイズが静かになり、
「縋り付いていた価値観が抜け落ちて空っぽになるが、どこか安心する」ような感覚が残る。
りょうさんが言う「空っぽに暖かいものがある」という表現は、
たぶんこの感覚のことだと思う。
雑栗わかるさんの「空っぽ」は、言葉の使いすぎから来ている
一方、雑栗わかるさんの「空っぽ」は、少し質が違う。
彼はこれまで、動画やSNSでたくさんの言葉を使って、
世界の仕組みや考え方を説明してきた人だ。
でも最近は、
- 言語化すると、すぐに誤解や議論が生まれる
- テンプレートみたいな反応が返ってくる
- それに対して、もう言いたいことがあまりない
という感覚を持っているように見える。
感覚レベルでは、すでに分かり合えている人たちがいる。
だから、あえて言葉にする意味が薄れてきた。
ただ同時に、
- 同じ話を、同じ人たちと繰り返していないか
- 新しい刺激やズレに触れているか
- その「空っぽ」は休息なのか、停滞なのか
という問いも、自然と浮かんでくる。
静かで落ち着いた状態と、動きが止まっている状態は、見た目がよく似ている。
自由や生きがいは、「ちょうどよい不自由」から生まれる
この二人のポストを並べて考えてみると、
自由や楽というものは、単に「負担を減らす」だけでは成立しない気がしてくる。
人は、
- 少し面倒な人との関わり
- 思い通りにいかない状況
- 制約の中で工夫すること
- エネルギーを使って試すこと
そういうものがあるからこそ、
達成感や手応えや面白さを感じられる。
ゲームが面白いのも、ルールがあるからだし、
創作が楽しいのも、制限があるからだ。
何でも自由で、何の摩擦もない世界は、
一見楽そうだけれど、実はあまり物語が生まれない。
「空っぽ」はゴールではなく、通過点なのかもしれない
りょうさんの「空っぽ」は、
余計な縛りがほどけた静かな状態に近い。
雑栗わかるさんの「空っぽ」は、
言葉を使いすぎたあとの疲労や飽和に近い。
同じ「空っぽ」という言葉でも、中身はかなり違う。
ただ、どちらの空っぽも、
そこで終わるのか、次に何かが動き出すのかで、意味が変わる。
空っぽは、終点ではなく、
次の流れに移るための「間」なのかもしれない。
自由とは、何も背負わないことではない
私が思う自由は、
- 何も責任を持たないことでもなく
- 他人と関わらないことでもなく
- 不快なものを全部消すことでもない
むしろ、
- 引き受けられる範囲で負荷を引き受けながら
- 無理のないペースで工夫し
- 他者や現実とのズレを完全には消さず
- それでも自分で選び続ける
その状態に近い気がしている。
完全な「楽」は、たぶん存在しない。
でも、「ちょうどいい不自由」の中には、確かに生きた実感がある。

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