武井壮さんの発言を、最近読んだ。
「努力で大谷翔平になれるのか、なんて問いはおかしい。
大谷翔平になるために自分があるんじゃない。
努力で最高級の自分を育てるんだ。」
この言葉自体は、嫌いではない。
むしろ、かなり共感できる部分もある。
武井壮さんは、極貧の幼少期や孤独、家族の喪失を経験しながら、分析と努力を積み重ねて、自分の人生を切り拓いてきた人だ。
その体験から、「人は自分のリソースを使って、少しずつでも自分を更新できる」という実感を持っているのだと思う。
そこには、本物の説得力がある。
ただ、だからこそ、引っかかる部分もある。
「一人ひとりが、自分の山を登ればいい。
大谷翔平になる必要はなく、自分にとっての最高級の自分を目指せばいい。」
このメッセージは、一見とても自由で、優しい。
けれど現実には、私たちは本当に「好きな山」を選べるほど、自由なのだろうか。
多くの人は、「資本主義の山」に登らないと生きてすらいけないのが現実ではないのか。
ここでいう「資本主義の山」とは、収入を増やす競争のことではない。
お金、収入、資産、雇用の安定、社会的信用、住む場所、医療や教育へのアクセス、時間の余裕。
こうした、生き延びるための条件そのものを、どれだけ確保できているかをめぐる巨大な地形のようなものだ。
私たちは、意識していなくても、毎日この山を登らされている。
会社に行くこと、給料をもらうこと、家賃を払うこと、保険に入ること、貯金をすること。
どれも「山を少しずつ登る」ための行為に近い。
この山の「標高」とは、単純な年収の数字だけではない。
手元にどれくらいの貯蓄があるか。
住居は安定しているか。
病気やケガをしたときに、安心して医療にかかれるか。
仕事を失っても、数か月は生活できる余力があるか。
学び直したり、環境を変えたりする選択肢を持っているか。
誰かに頼れる関係があるか。
時間を、自分の身体や関心に使える余裕があるか。
これらすべてをまとめた「生活の安全高度」を、資本主義の山の標高だと考えると理解しやすい。
標高が低いほど、霧が濃く、上につながるルートが見えづらい。
別の登山道の方が良さそうに思えても、別の道へ向かう、その一歩がそのまま生活の崩壊につながる可能性があるため、簡単には踏み出せない。
毎月の支払いに追われ、わずかな出費で家計は不安定になる。
体調を崩しても、休めば収入が止まるという恐怖が先に立つ。
引っ越しや転職、副業や学び直しといった選択肢も、初期コストと失敗リスクの前で現実味を失っていく。
結果として、人は「どうやって登ればいいのか分からない山」を、登り続けることを強いられる。
視界が開ける前に体力が削られ、将来を構想する余白すら奪われていく。
思考は自然と、「今日をどう生き延びるか」という短いスパンに収束していく。
視界は狭く、遠くの景色を見る余裕がない。
別の山に登りたいとか、自分らしい生き方を探したいとか、そんなことを考える酸素が足りない。
一方で、ある程度高い標高では、風景は全く変わる。
少しの失敗では、すぐに滑落しなくなる。
一度仕事を失っても、次を探す経済的・時間的な余裕が十分ある。
体を休める選択もできる。
学び直しにエネルギーを割ける。
人との関係や、創作や、身体のケアに、意識を向けられる。
ここではじめて、「どう生きたいか」という問いが、現実的な選択肢として立ち上がる。
「自分の山」を探す余白が生まれる。
だから、資本主義山の標高とは、単なるお金の多寡ではない。
それは、その人の人生がどれだけ自由に動けるか、どれだけ失敗を許容できるか、どれだけ世界を選び直せるかを決める可動域の高さなのだ。
問題は、この山のスタート地点も、斜面の角度も、人によってまったく違うということだ。
すでに高原から歩き始められる人もいれば、
谷底から、滑りやすい岩場を、重たい荷物を背負って登らなければならない人もいる。
同じ「努力」という言葉で語られていても、
同じ一歩でも、消耗の度合いはまるで違う。
そして多くの人は、本当は別の山を登りたいと思っていても、
まずこの資本主義山で、最低限の標高を確保しない限り、
自分の登りたい山があることすら意識できない。
「自分の山を登れ」という言葉は、
この地形の厳しさを見落とすと、とても軽く、時に残酷に響いてしまう。
収入、資産、雇用、社会保障、居住、医療。
どれも資本主義の標高が低すぎると、そもそも生活が成立しない。
「自分の山を登れ」と言われても、
多くの人は、最初から資本主義の山に縛りつけられている。
しかも、この資本主義の山は、立たされる地点が極端に不平等だ。
生まれた家庭、国、健康状態、教育、文化資本、人間関係。
人によって、立っている標高も、背負っている装備も、足場の安定度もまるで違う。
すでに見晴らしのいい尾根から歩き始められる人もいれば、
崩れやすい斜面の下のほうで、重たい荷物を抱えたまま、一歩ずつ体勢を立て直さなければならない人もいる。
同じ「努力」という言葉で括られていても、
登っている傾斜も、装備も、酸素の薄さも、まるで違う。
さらに厄介なのは、多くの分野が「winner takes all」に近い構造を持っていることだ。
スポーツ、芸能、インフルエンサー、起業、クリエイティブ。
トップの一握りだけが大きな報酬と可視性を得て、
二番手、三番手は生活が成立しないことも多い。
武井壮さん自身が、まさにその「極端な成功例」の側にいる。
だからこそ、「自分の山を登れ」という言葉が、現実の地形の険しさを少し軽く扱いすぎているようにも感じる。
「最高級の自分」という言葉も、実は曖昧だ。
それは、
「資本主義の山の自己ベストとしての最高級」なのか。
それとも、「自分が本当に登りたい山での最高級」なのか。
どちらなのかは、はっきりしない。
ただ一つ確かなのは、どちらであっても、最低限、資本主義の山での標高が高くなければ、生きていくこと自体が難しいという現実だ。
「努力すれば変われる」という言葉が真実である一方で、
「努力できる状態に立てるかどうか」自体が、すでに偶然や構造に強く左右されている。
そこを切り落とした努力論は、いつの間にか、静かな「圧」になる。
努力できなかった人、途中で折れた人、運に恵まれなかった人に対して、
「あなたの問題だ」「意味のない話だ」と、無意識に切り捨ててしまう。
武井壮さんの言葉の奥には、
過酷な人生を乗り越えたからこそ生まれた強さと、
同時に、その強さが他者を追い詰めてしまう危うさも、どちらも含まれているように感じる。
努力は、たしかに尊い。
自分を更新する喜びも、本物だ。
けれど、すべての人が、同じ斜面、同じ装備、同じ酸素で登っているわけではない。
「最高級の自分」という言葉が、
誰かにとっての希望になることもあれば、
誰かにとっては、見えない重荷になることもある。
だからこそ、私は、この言葉をそのまま信じきることができない。
努力を否定したいわけではない。
ただ、努力が成立する前提条件そのものにも、もう少し光を当てたい。
誰もが、自分のペースで呼吸できる場所。
登らない選択も、立ち止まる選択も、許される余白。
その余白がないままの努力論は、
いつかまた、別の誰かの身体に、静かに圧をかけてしまう気がしている。