今日、盆栽の動画を見ていた。
最初は、ただ「和の趣味」くらいの気持ちだった。
小さい木を愛でる、渋い文化。
その程度の認識だった。
でも、実際の盆栽は全然違った。
枝を大胆に切る。
根をバッサリ切る。
針金でぐるぐる巻きにして、無理やり曲げる。
鉢を小さくして栄養を削り、わざと大きく育てない。
しかも、それを何十年も続ける。
私は途中から、妙な感覚になった。
これって、「自然を愛でる文化」なんだろうか。
むしろ、
「自然を、人間が見たい形へ矯正する文化」
なんじゃないか、と。
木は本来、どこへ伸びるか分からない。
風に流されるかもしれないし、変な方向へ曲がるかもしれない。
巨大化するかもしれないし、途中で折れるかもしれない。
でも盆栽は、その“不確定さ”を嫌う。
「この枝はいらない」
「こっちへ曲げる」
「この高さで止める」
と、人間が“完成形”を先に決める。
その瞬間、私はふと思った。
ああ、人間って、世界そのものに対しても、同じことをしているのかもしれない、と。
都市計画。
交通整理。
ルール。
教育。
景観。
マナー。
全部、「世界を、自分たちが安心できる形へ整えたい」という欲望の延長なのかもしれない。
しかも厄介なのは、それが悪意ではないことだ。
「安全のため」
「持続可能性のため」
「みんなが快適に暮らすため」
という、善意の顔をして現れる。
だから反論しづらい。
実際、私自身だって、
家の前で騒がれるのは嫌だし、違法駐輪も嫌だし、交通が混乱するのも嫌だ。
つまり私は、
「自分は自由に生きたい」
と思いながら、
「都市は、自分にとって快適な形へ整っていてほしい」
とも思っている。
これはかなり身勝手な話だ。
自分だけはジャングルでいたい。
でも、自分以外の世界には、盆栽であってほしい。
たぶん、人間はみんな、少しずつ“盆栽師”なんだと思う。
SNSでもそうだ。
ノイズを消し、ミュートし、自分好みの情報だけを並べていく。
タイパ、コスパ、最適化。
気づけば、自分専用の小さな庭園を作っている。
でも、本来の生命って、もっと暴れるものだったはずだ。
うるさくて、非効率で、予測不能で、時々失敗して、変な方向へ伸びていく。
それを「無駄」と呼び始めた瞬間から、人類はずっと、世界を剪定し続けているのかもしれない。
ただ一方で、少し冷静になると、それは人間の悪意だけではない気もする。
そもそも世界そのものが、放っておけばカオス化していく。
草は伸びる。
道は荒れる。
建物は老朽化する。
都市は拡散する。
人間関係はもつれる。
情報はノイズ化する。
つまり、世界は基本的に、エントロピー増大方向へ流れていく。
だから人類は、
道を作り、
庭を整え、
法律を作り、
都市を計画し、
交通を整理し、
文化を編み出してきた。
文明そのものが、
「カオス化への抵抗運動」
なのかもしれない。
盆栽も、その縮図なのだと思う。
放っておけば木は好き放題伸びる。
でも人間は、それを少しずつ整え、限られた鉢の中で維持しようとする。
つまり、カオスへの自然な流れを、人間の秩序へ変換する行為なのだ。
だから、本当に怖いのは、盆栽そのものではない。
人間が、「完全なジャングル」にも、「完全な管理社会」にも耐えられず、その中間を永遠に剪定し続ける存在だということなのかもしれない。
盆栽は、美しい。
でもあの美しさは、自由に山で育った木の美しさとは、少し違う。
今日、動画の中で針金を巻かれた木を見ながら、
「人間は、いつから、自由に伸びることより、綺麗に管理されることを好きになったんだろう」
などと、ぼんやり考えていた。

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