ログアウト不能なこのゲームについて ――「腹落ち」の向こう側にある不条理

主体空間モデル」なんてものを書いて、三重構造がどうの、現実は制約された夢だのと整理してみたけれど。

正直に言うと、書き終えたあとも、胸の奥のモヤモヤはあまり晴れていない。

理論は、世界の「仕組み」を説明してくれる。
でも、その仕組みの「あまりの横暴さ」については、まったく納得させてくれない。

いちばん引っかかるのは、この「強制性」だ。

毎朝、目が覚めるたびに、
私は否応なしに自己の身体にログインさせられる。

昨日の記憶を引き継ぎ、
この身体の不調を引き継ぎ、
この人生の責任を引き継ぐ。

そこに「本日も継続しますか?」なんて確認は出ない。

死という強制終了が来るまで、
私たちはこの一人称視点の座席に縛り付けられたまま、
ログアウトを許されない。

そして、その「初期設定」の不平等さ。

ある主体空間には、あふれるような資産や才能が与えられているのに、
別の空間では、今日を生き抜くだけで精一杯なほどの制約がかかっている。

このゲームには、どうやらバランス調整なんてものはないらしい。

この圧倒的な不条理を、
「それが世界の仕組みだから」で飲み込むには、
人生はちょっと重すぎる。

それと同じくらい不思議なのが、周りの人たちだ。

職場の同僚も、街ですれ違う人も、
みんな遅かれ早かれ「身体の消滅」を迎えることが決まっている。

それなのに、
どうしてみんな、虚無にも自暴自棄にもならずに、
このゲームを続けていられるんだろう。

もしかしたら、
みんな内側では同じように引っかかっているのかもしれない。

それとも、この「強制起動」の繰り返しの中に、
まだ自分が見えていない何かがあるのか。

消えることが分かっているのに、
なぜ次の瞬間は生成され続けるのか。

選んだわけでもない条件を、
なぜ私たちは「自分の人生」として引き受けているのか。

今のところ、答えは見えない。

ただ、
この「腹落ちしなさ」を感じているこの瞬間だけは、
理論の「予測」と、生々しい「現実」のあいだに、
はっきりとズレがある。

そしてたぶん、
そのズレこそが、
いま自分がここで「生きている」という実感なのかもしれない。

今日はとりあえず、
この割り切れなさを抱えたまま寝て、
また明日の「強制ログイン」を待つことにする。

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