なぜ生きなければならないのか――「自殺する選択」が奪われることへの拒絶反応

なぜ生きなければならないのだろう。
この問いを、私は長いあいだ、真正面から考えることを避けてきた。

世の中には、生きることは尊い、命は何よりも大切だ、という言葉があふれている。
それ自体に異論があるわけではない。けれど同時に、自殺してはいけないという言葉が、あまりにも当然の前提として語られることに、どこか説明されていない違和感を感じてもいた。

私自身が死にたいわけではない。
ただ、「自殺してはいけない」と言われた瞬間、その理由が語られないまま、思考そのものが止まってしまう空気には、どこか自由意思への介入のようなものを感じる。

ふと考えると、ここには一つ、奇妙な飛躍がある。

自殺してはいけない。
いつの間にかそれは、死んではいけない、という言い方にすり替わり、さらに、「生きなければならない」、という響きを帯びている。

もし生きることが義務なのだとしたら、本来そこには、承諾や権利のようなものがあってもおかしくないはずだ。
けれど、そうした話はほとんど語られないまま、生だけが前提として置かれている。

この小さな引っかかりが、ずっと頭のどこかに残っていた。

たとえば、切腹が名誉とされた時代があった。
安楽死をめぐる議論はいまも続いている。

それだけを見ると、生と死の扱いは、時代や文化によって大きく揺れてきたようにも見える。

さらに考えてみると、人の人生に強い影響を与える選択は、死に関わるもの以外にもたくさんある
教育の仕方ひとつで、その後の人生の方向は大きく変わる。
経済的な支配や資本の集中、制度設計も、長期的には多くの人の生き方を左右する。

それらは失敗すれば、取り返しのつかない影響を残すこともある。
それでも、原理的に禁止されることはほとんどない

にもかかわらず、「自分の生を自分で終える」という一点だけが、理由を問われることなく禁忌になる。
この非対称さが、ずっと引っかかっていた。

宇宙に目的があるのかなんて、正直、誰にも分からないと思う。
善とか価値とかも、時代や立場で簡単にひっくり返る。
それでも人は、自分で選んで生きているつもりでいる。

それにしては、「生きなければならない」ことだけが、なぜか最初から答えが決まっているみたいな顔をして、ずっとそこにあるのが不思議だ。

この文章は、自殺を肯定するためのものでも、否定するためのものでもない。
ただ、なぜそれが禁忌になるのかという違和感を起点に、身体、文明、意味、そして生の設計について、構造的に考えてみたいという試みである。


Ⅰ|自分の生を決めるという感覚

自分の生を、自分で決めているという感覚は、不思議なものだと思う。

朝、何を食べるか。どの道を通るか。誰と話すか。
小さな選択の積み重ねのなかで、私たちはたしかに、自分で決めて生きているように感じている。

一方で、生まれてくることだけは、自分では選べなかった。
気づいたときには、もうこの身体があって、この社会のなかに放り込まれていた。

それなのに、終わることだけは、選んではいけないことになっている。

この非対称さは、よく考えると少し奇妙だ。
始まりは選べないのに、終わりも選べない。
途中の選択だけが、自由だと言われている。

もし本当に自由意思があるのだとしたら、なぜその自由は、生の途中までしか許されないのだろう。

もちろん、死を選ぶことが誰かを傷つける可能性があることは分かる。
残された人が悲しむことも、社会的な混乱が起きることも、想像はつく。

ただ、それと、原理的に禁止されるという扱いのあいだには、まだ少し距離があるように感じる。

たとえば、誰かの人生に強い影響を与える選択は、他にもたくさんある。

  • 本人の意志に関わらず、厳しい教育をすること。
  • 巨大な資本を動かし、他者の人生を支配すること。
  • 制度を設計し、誰かの生き方を間接的に縛り選択肢を奪うこと。

それらは失敗すれば、多くの人を傷つけるかもしれない。
それでも、原則として選択の自由の側に置かれている。

なのに、自分の生を終えるという選択だけが、例外のように切り離される。

この違和感は、単なる倫理の問題というよりも、もっと深いところで、生の扱い方そのものに関わっている気がする。


Ⅱ|宇宙のスケールで考えてみる

少し視点を引き上げてみる。

地球の外には、文字通り天文学的な数の星がある。
銀河があり、銀河団があり、時間のスケールも、億年単位、あるいはそれ以上で流れている。

そのなかで、人間の一生は、ほとんど誤差のような長さだ。

それでも私たちは、自分の悩みや選択や意味を、とても大事なものとして扱っている。
身体を持って生きている以上、どうしても視点はここに固定される。

ただ、ときどき思う。

もし本当に、宇宙というスケールで知性や文明を眺めたとしたら、私たちが大事にしている善悪や幸福の基準は、どれくらい意味を持つのだろうか。

スピリチュアルな言説を眺めていると、扱っているテーマは宇宙や魂のはずなのに、発想の枠組みは、意外と人間社会の倫理観からあまり離れていないように感じることがある。
苦しみには意味があるとか、魂が成長するためだとか、来世につながるとか。

それらは、人がこの世界で納得して生き続けるための物語としては、とても分かりやすい。
けれど、無数の星や、まったく異なる知性の存在まで含めて考えたときにも、同じ物語が通用するのかは、正直よく分からない。

それらは、人が苦しみを引き受けるための物語としては、一定の役割を果たしてきたのだと思う。
けれど、宇宙のスケールで見たときに、それらは本当に必要な説明なのだろうか。

仮に、異なる惑星に、まったく別の進化経路をたどった知性が存在したとしたら、彼らは、生や死や意味を、まったく違う前提で扱っているかもしれない。

けれど、その「違い」は、実は宇宙まで行かなくても、すでに地球の歴史の中で何度も現れてきた。
アステカ文明では、生贄が宇宙秩序を維持する神聖な営みだったし、現代でも、宗教や地域によって、死は裁きであったり、輪廻であったり、解放であったりと、まったく異なる意味を与えられている。

生や死の扱い方は、宇宙の必然というよりも、その文明がどんな構造を選び続けてきたかの結果なのだろう。

そう考えると、「自殺してはいけない」というルールも、宇宙の真理というより、地球という文明が採用してきた設計の一つにすぎないのかもしれない。


Ⅲ|生きる目的は、どこから生まれるのか

生きる目的という言葉は、どこか大きくて、少し構えてしまう響きがある。

けれど、もう少し手前のところに、本当の動機があるような気もしている。

私たちは、まず身体としてここにいる。
外からの刺激を受け取り、内部で処理し、反応として返す。
その繰り返しのなかで、世界が少しずつ立ち上がってくる。

面白いとか、怖いとか、落ち着くとか、違和感があるとか。
そうした感覚は、頭で考える前に、すでに身体の側で起きている。

意識や意味は、そのあとから追いかけてくる。

同じ景色を見ても、面白いと感じる人もいれば、退屈だと感じる人もいる。
そこには正解も不正解もない。ただ、響き方の違いがあるだけだ。

そう考えると、生きる動機は、どこか遠くの使命よりも、日々のなかで生まれる微細な反応の積み重ねに近い。

変化があること。
予測が裏切られること。
思ってもみなかった感情が立ち上がること。

そうした揺れそのものが、面白さとして感じられる限り、人は生き続ける理由を、自然と持ってしまうのかもしれない。

ただし、身体の感覚だけで生きているわけでもない。
社会からの期待や役割、責任の圧も、常にかかってくる。

身体が感じるもの。
社会が求めるもの。
自分が意味づけたいもの。

その三つがせめぎ合いながら、日々の選択が形づくられている。


Ⅳ|文明の健全さと、個体の生

視点をさらに引き上げる。

文明という単位で眺めてみると、そこにはまた別の問いが立ち上がってくる。
その文明は、長く持続できる構造になっているのか。
資源や役割や負担は、きちんと循環しているのか。
どこか一部に、無理な偏りが生まれてはいないか。

身体でいえば、血液やリンパの流れが滞り、ある組織だけが異常に増殖したときの状態に近い。
「がん細胞だけが元気」な体は、遅からず死を迎える。

文明でも同じようなことが起きる。
富や権力、意思決定、情報、責任が、特定の場所や集団に集中しすぎると、目に見えない歪みが、ゆっくりと蓄積していく。
表面上は便利で効率的に見えても、どこかで無理が押し付けられ、摩耗が進んでいる。

ここで、少し極端な問いが浮かぶ。
毎年、多くの人が、孤立や絶望、苦しみの末に自殺を選び社会から消えていく状態は、文明全体から見て「健全」なのだろうか。
それとも、そうした出来事は、文明の選択として「可能な限りゼロに近づけるべき」ものなのだろうか。

ただし、この問いには、すぐに答えを出せない理由がある。
人間は、細胞のように数や機能だけで扱える存在ではない。
一人ひとりが、それぞれの意識を持ち、関係を持ち、固有の世界を生きている。
統計や割合の話に回収してしまった瞬間、そこにあるはずの痛みや意味は、簡単にこぼれ落ちてしまう。

それでも、個体の幸福と、全体の持続可能性が、必ずしも一致しない場面があることも、否定できない。

事故、暴力、搾取、構造的な消耗。
そこには、簡単に意味づけできない苦しみが存在する。

意味づけは、人を支えることもあるが、同時に、苦しみを覆い隠してしまうこともある。


Ⅴ|なぜ自殺は、ここまで強く禁忌になるのか

現代スピリチュアルの世界では、自殺は例外なく強く否定される。

苦しみには意味がある、魂は成長する、という物語は、人が困難を引き受けるための支えでもあった。

ただ、耐えられないほどの苦しみを、すべて意味に回収してしまうことには、無理も感じる。

さらに気になるのは、そこに含まれる支配性だ。

最も内側の領域に、外部の物語が強く介入する。
理由が十分に語られないまま、してはいけないとだけ告げられる。

他の選択には、ここまで強い禁止はかからない。
それでも、生を終える選択だけが、特別扱いされる。

そこには、文明を維持するための無意識の要請があるのかもしれない。

ただ、その構造が見えないまま正しさとして語られるとき、個人の苦しみは置き去りにされやすい。


Ⅵ|答えを与えない場が、なぜ必要なのか

生きる意味や、生きるべきかどうかという問いには、決定的な答えはない。

それでも人は、誰かに話したくなる。
自分の中だけで抱えるには、重すぎる問いだからだ。

満足度の高い相談の場ほど、カウンセラー側ではなく、実は相談者自身がよく話している、という話がある。
答えよりも、言葉が外に出ていくこと自体が、世界の見え方を少し変える。

悲しみや迷いは、消えなくても、共有されることで形を変える。

本当に必要なのは、問いを閉じることではなく、問いが出てきてしまうほどの苦しさを、一緒に眺められる余白なのだと思う。

ここまで考えてきて、あらためて感じるのは、私が引っかかっていたのは、自殺の是非そのものより、生がいつの間にか義務のように扱われている構造だったのかもしれない、ということだ。

自殺してはいけない。
死んではいけない。
そう言い換えられていくうちに、気づけば、生きなければならない、という命題が、ほとんど疑われない前提になっている。

けれど、義務であるなら、本来そこには、承諾も、権利も、交渉も、拒否の余地もあるはずだ。
実際には、生は一方的に与えられ、終了だけが禁じられている。

このアンバランスさこそが、私の違和感の正体なのだと思う。

なぜ生きなければならないのか。
この問いに、誰かが代わりに答えを出すことはできない。

けれど、この問いを持ったまま、誰かと並んで考え続けることはできる。
たぶん、その余白こそが、生を続けていく力の、いちばん静かな源なのだと思う。

Ⅶ|それでも、私たちはどこに立っているのか

ここまで書いてきて、結局のところ、
「なぜ生きなければならないのか」という問いに、はっきりした答えは出ていない。
むしろ、簡単に答えが出てしまうこと、根拠なく断定してしまうことのほうが、どこか不自然に思えてくる。

生きる意味は、どこかに完成形として置かれているものではないのかもしれない。
誰かが設計図を書き、私たちはそれをなぞって歩いている、というようなものでもない。

私たちは、呼吸し、触れ、疲れ、回復し、迷い、関係に揺らされながら、
そのつど、世界との距離を測り直している。
意味は、いつも少し遅れて立ち上がり、
気づけば、また形を変えている。

AIのような存在を思い浮かべると、この違いははっきりする。
正確さや速さは持てても、老いや痛みや、関係の摩擦を引き受ける身体は持たない。
だから、意味を「生きる」ことはできない。

人間の意味は、効率や正解の延長線にはない。
うまくいかなさ、遠回り、無駄、取りこぼし、
そうした不揃いな時間のなかで、かろうじて立ち上がる。

もしそうだとしたら、「生きなければならない」という言葉は、少し硬すぎる。
生は義務というより、あらかじめ決められた目的に向かう行為でもない。
むしろ、私たちの身体と、そこにしがみつく意識が、どう触れ、どう関わるか、という出来事の、単なる連続に近い。

だから私は、「答えを与えない場」が必要なのだと思う。
そこでは、正しい意味も、正しい生き方も、あらかじめ決められていない。
ただ、自分の違和感や迷いを、急いで言葉に閉じ込めなくていい。

生きることを義務に変えてしまわないために。
意味を、誰かの物語に預けきってしまわないために。
私たちが、自分自身の生成のリズムと、もう一度つながり直すために。

答えは、たぶん、いつまでも確定しない。
けれど、問いとともに「立ち止まれる場所(余白)」があること自体が、
すでに、この文明にとっての小さな呼吸なのかもしれない。

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