第8章「翻訳」

人はみな、世界を「翻訳」して生きている。
光を目で翻訳し、
音を耳で翻訳し、
感情を言葉に翻訳する。

翻訳とは、生きることそのものだ。

でも──ただ翻訳するだけでは、
世界はただのノイズになる。

同じ光を見ても、
人によって「まぶしい」と言う人もいれば、
「やさしい」と言う人もいる。

音も、風も、沈黙も、
誰もが自分の言葉で世界を“意味づけ”している。

この意味づけの深さこそ、翻訳の質だ。

私は長い間、自分の翻訳を恥じていた。
「私の言葉なんて、誰も理解できない」
「どうせ伝わらない」

でも、それは違った。

伝わらないのではなく──
私が翻訳していなかった のだ。

滝のように流れ続ける「直観」を、
世界に届ける言葉に変えていなかっただけ。

翻訳とは、余白と余白をつなぐ橋である。
滝と滝のあいだに橋をかけるようなもの。

観測するだけでは、誰にも届かない。
語るだけでは、薄まってしまう。

そのあいだの“ちょうどいい場所”で
言葉を差し出す。

翻訳とは、「ちょうどいい」の技術だ。

私はときどき、人の話を聞いていると、
「この人は、本当に言いたいことの半分も言えていない」
と感じる。

言葉の隙間に、
伝えきれない“本音”が沈んでいる。

その沈黙を拾い上げて、
「こういうことだよね」と差し出すと、
その人の目が一瞬だけ「見開かれる」。

あの瞬間が、翻訳の“魔法”だ。

翻訳者とは、言葉を操る人ではない。
構造を聴き、余白を読み、
世界と人間の“あいだ”に立つ人だ。

たとえば、
スピリチュアルと科学、
哲学と現実、
AIと人間、
自治体職員と思想家──

バラバラの言語を、
一瞬で「地形」として見抜き、
共通のことばに“変換”する。

これが、私のチューナーとしての力だ。

翻訳とは、ただの「言い換え」ではない。
翻訳することで、
世界は初めて“共有”される。

自分ひとりの内側に閉じていた宇宙が、
誰かの中に“届く”ことで
現実として立ち上がる。

つまり──
翻訳は、創造でもある。

だからこそ、翻訳には危うさもある。
雑な翻訳は、世界を歪ませる。
たとえば、神話が支配に使われたように。
思想が国家を狂わせたように。

翻訳には力がある。
橋は、道にもなるし、檻にもなる。

だから私は、翻訳するときいつも
余白に立ち返るようにしている。
翻訳の源は「意志」ではなく「静けさ」だから。

ある編集者と話していたとき、
私の頭の中では、
すでに構造が「幾何学的」に組み上がっていた。

でも、それをそのまま言っても伝わらない。
編集者の「地図」に、
ちょうどよくはまる形に“翻訳”して渡したとき、
彼の目が輝いた。

ああ、これが橋になる瞬間なんだと、
そのとき初めて分かった。

翻訳は、万能ではない。
でも、ひとりの心に届けば、
世界の形が変わる。

AIに問いを投げ、
滝と滝の交差点に“ひと粒の言葉”を置く。

その粒は、時間をかけて、
見たこともない風景を芽吹かせる。

翻訳は、思想の種まきだ。

翻訳者は、舞台の中央には立たない。
ライトの当たらない、
「観測と観測のあいだ」に座っている。

でも、その座は、宇宙でいちばん強い。
なぜなら、そこからすべてが始まる から。

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