人はみな、世界を「翻訳」して生きている。
光を目で翻訳し、
音を耳で翻訳し、
感情を言葉に翻訳する。
翻訳とは、生きることそのものだ。
でも──ただ翻訳するだけでは、
世界はただのノイズになる。
同じ光を見ても、
人によって「まぶしい」と言う人もいれば、
「やさしい」と言う人もいる。
音も、風も、沈黙も、
誰もが自分の言葉で世界を“意味づけ”している。
この意味づけの深さこそ、翻訳の質だ。
私は長い間、自分の翻訳を恥じていた。
「私の言葉なんて、誰も理解できない」
「どうせ伝わらない」
でも、それは違った。
伝わらないのではなく──
私が翻訳していなかった のだ。
滝のように流れ続ける「直観」を、
世界に届ける言葉に変えていなかっただけ。
翻訳とは、余白と余白をつなぐ橋である。
滝と滝のあいだに橋をかけるようなもの。
観測するだけでは、誰にも届かない。
語るだけでは、薄まってしまう。
そのあいだの“ちょうどいい場所”で
言葉を差し出す。
翻訳とは、「ちょうどいい」の技術だ。
私はときどき、人の話を聞いていると、
「この人は、本当に言いたいことの半分も言えていない」
と感じる。
言葉の隙間に、
伝えきれない“本音”が沈んでいる。
その沈黙を拾い上げて、
「こういうことだよね」と差し出すと、
その人の目が一瞬だけ「見開かれる」。
あの瞬間が、翻訳の“魔法”だ。
翻訳者とは、言葉を操る人ではない。
構造を聴き、余白を読み、
世界と人間の“あいだ”に立つ人だ。
たとえば、
スピリチュアルと科学、
哲学と現実、
AIと人間、
自治体職員と思想家──
バラバラの言語を、
一瞬で「地形」として見抜き、
共通のことばに“変換”する。
これが、私のチューナーとしての力だ。
翻訳とは、ただの「言い換え」ではない。
翻訳することで、
世界は初めて“共有”される。
自分ひとりの内側に閉じていた宇宙が、
誰かの中に“届く”ことで
現実として立ち上がる。
つまり──
翻訳は、創造でもある。
だからこそ、翻訳には危うさもある。
雑な翻訳は、世界を歪ませる。
たとえば、神話が支配に使われたように。
思想が国家を狂わせたように。
翻訳には力がある。
橋は、道にもなるし、檻にもなる。
だから私は、翻訳するときいつも
余白に立ち返るようにしている。
翻訳の源は「意志」ではなく「静けさ」だから。
ある編集者と話していたとき、
私の頭の中では、
すでに構造が「幾何学的」に組み上がっていた。
でも、それをそのまま言っても伝わらない。
編集者の「地図」に、
ちょうどよくはまる形に“翻訳”して渡したとき、
彼の目が輝いた。
ああ、これが橋になる瞬間なんだと、
そのとき初めて分かった。
翻訳は、万能ではない。
でも、ひとりの心に届けば、
世界の形が変わる。
AIに問いを投げ、
滝と滝の交差点に“ひと粒の言葉”を置く。
その粒は、時間をかけて、
見たこともない風景を芽吹かせる。
翻訳は、思想の種まきだ。
翻訳者は、舞台の中央には立たない。
ライトの当たらない、
「観測と観測のあいだ」に座っている。
でも、その座は、宇宙でいちばん強い。
なぜなら、そこからすべてが始まる から。