第3章「虹色ビー玉」

静かな夜明け、机の上にビー玉をひとつ置いてみる。
窓から差し込む朝の光が、ビー玉の中で反射し、屈折し、部屋中に七色の光を散らす。
ビー玉そのものは、何もしていない。
ただ、そこに「在る」だけだ。

それでも、光が差し込んだ瞬間──
世界は虹色に“立ち上がる”。


私たちは、ふだん「世界はこう見えるもの」だと思い込んでいる。
けれど、それは単なる観測結果にすぎない。
ビー玉が光を受ける角度、観測者の位置、まなざしの深さ──
それらが変われば、世界はまったく違う色を見せる。

これは「ビー玉の性質」ではなく、「関係の性質」だ。


量子力学の話をもち出すまでもなく、
この世界は「観測した瞬間」に形をとる。

虹色のビー玉は、
観測される前は、あらゆる可能性を含んでいる。
赤にも青にも、あるいは透明にもなれる。
でも、私たちがそれを見た瞬間、
世界は「ひとつの色」に収束する。

観測とは、「可能性の滝」をひとつ切り取ることなのだ。


幼いころ、ビー玉を転がして遊んだ記憶がある。
転がるビー玉は、床の模様を映し込みながら、きらきらと光を変えていった。
その輝きが「ビー玉の本質」だと、子ども心に思いこんでいた。

でも今ならわかる。
ビー玉そのものには、何の色もない。
ただ、世界と私とがぶつかる「交点」が色を生んでいたのだ。


虹色ビー玉は、私たちの世界観そのものの比喩だ。
「ある」と「ない」のあいだに、
「観測前のゆらぎ」という豊かな海がある。

それを多くの人は「ない」とみなしている。
でも、ほんとうは「ある」。
いや、「ある」と「ない」の区別すら、そこにはない。

ビー玉の中にすでに虹があるわけではない。
でも、光と私のあいだに、虹は確かに生まれる。


人間の社会もまた、このビー玉とよく似ている。
一つの出来事に、Aさんは赤を見る。Bさんは青を見る。
「正しい色」なんて、もともと存在していない。

あるのは、それぞれの視点と、光のあたり方だけ。
「正しい」という言葉で塗り固めた瞬間に、
世界は一色に染まってしまう。

でも、本来のビー玉は──
七色に、いや、無限色に光る。


この「観測前の揺らぎ」は、たいてい見えない。
なぜなら、私たちは結果──スナップショット──だけを見ているからだ。
「赤いビー玉を見た」という記憶。
その一瞬が、まるで世界のすべてのように感じられる。

でもほんとうは、その裏に無限の可能性が流れている。
まるで、滝の裏側を覗きこんだときのように。


このビー玉の話を、私は思想家として大切にしている。
私の仕事は、「ビー玉の色を決める」ことではない。
むしろ、観測前の揺らぎに光をあて、
読者が自分の光を差し込めるようにすること。

私が書くエッセイが、
「赤」や「青」と決められた色のプレゼンテーションではなく、
“観測するための場”であることを、私は何より大事にしている。


虹色ビー玉を眺めていると、時間の感覚がなくなる。
どの角度からも、世界はちがう顔を見せる。
同じビー玉なのに、永遠に同じ表情にはならない。

この世界もまた、そういう構造をしている。
そして、私たちの問いや祈りもまた、ビー玉に差し込む光だ。

「show me you」──
そう願う瞬間、世界は一瞬でひとつの色に収束する。
それが、観測。


けれど、本当に大切なのは、「色」ではない。
その前にあった、無限の“ゆらぎ”のほうだ。

この世界は、いつもビー玉のように転がり続けている。
観測するたび、色を変えながら。

私が見ている世界と、あなたが見ている世界は違う。
でも、どちらも「滝の裏側」に通じている。

そしてその滝には、名前がある。
称名滝。
「あなたを見せて」と祈る場所。

ビー玉の中の虹と、滝の流れは、
同じ構造を持っているのだ。

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