冒頭のシーンで、群衆が「悪い魔女の死」を喜んでいる中、ひとりの少女がグリンダに問いかける。
「どうして、悪い魔女なんて生まれてしまうの?」
その一言が、ずっと胸に残った。
なぜこの世界には善と悪があるのか。
なぜ「善」だけでは成り立たないのか。
なぜエルファバは「悪」と呼ばれる存在になってしまったのか。
この映画は、最初からその問いを観る側に差し出してくる。
一般的な鑑賞では、この物語は「差別」や「権力」「多数派による排除」の批判として読まれることが多いと思う。善悪は立場によって変わる、正義は一枚岩ではない、そういう読み方ももちろん成立する。
この物語の中で、オズ大王は強い象徴的な権力として描かれる。巨大な顔のからくり、わかりやすい威厳。多くの観客は、そこから「支配」「抑圧」「欺瞞」を読み取るだろう。
そしてこの映画のハイライトで「Defying Gravity」が歌われる。エルファバが、オズ大王による偽りの秩序、そして自分自身を抑え込んでいた「社会の重圧」を跳ね除けて、空へ舞い上がる決意を歌う楽曲だ。
「重力」は、克服すべき「試練」や「支配」「必要悪」のように描かれる。
けれど、それだけでは足りないのではないかという感覚が沸き起こった。
人は、重力がなければ、飛ぶことすらできない。
重力があるから、上下があり、自分が立つ場所が定まり、進むべき方向が生まれる。完全な無重力の空間では、自由ではあるけれど、立つべき場所すら自力で定めなければ定まらず、どこへ向かうのが正解なのかも分からない。
秩序や社会の構造も、これと似ているのかもしれない。
成熟しきっていない存在にとって、ある程度の「重力」や「枠」は、安心や学習のための足場にもなる。
だから、秩序や支配構造があることそのものを「悪」と断定してしまうと、どこか現実とズレてしまう気がした。
この映画が美しいのは、グリンダとエルファバを、単純な善悪として配置していないところだと思う。
グリンダは、秩序の側に立つ。社会の安定、多数派の安心、わかりやすい正義を引き受ける存在。
エルファバは、秩序の外に立つ。排除される存在(動物たち)の声に身体が反応し、自分の内なる本心を裏切れない存在。
どちらが正しい、ではない。
どちらか一方だけでは、世界はうまく回らない。
車輪の両端のように。
鳥の両翼のように。
安定する力と、更新する力。
地に足をつける力と、浮上する力。
この二つは、常に緊張関係を保ちながら、同時に必要とされている。
興味深いのは、オズ大王がエルファバを「必要としていた」ことだ。
魔法の書物Grimmerieを読めるという非再現的な資質、個の身体から立ち上がる感受性、構造の外に出てしまう唯一性。オズ大王は自らそれを求めた。
エルファバは、秩序の外側に芽生える「次の可能性」である。
エルファバは、オズの側に留まらなかった。
オズを「悪」として破壊するのでもなく、自分の信じた方向に、そのまま生きていく道を選んだ。
「Defying Gravity」という曲は、その決断の象徴のようにも感じられた。
重力が存在しているからこそ、「逆らう」という行為自体が意味を持つ。
秩序があるから、逸脱が生まれる。
重力があるから、飛ぶことができる。
この物語は、どちらかを否定する話ではなく、両極が同時に存在する世界の呼吸を描いているように感じた。
――つづく。