今日は、「生きづらい」って言葉を、社会に向かって口にする、という行為そのものについて考えていた。 きっかけは芸能人のインタビュー記事だったけれど、読み進めるうちに、だんだん個人の話じゃ済まなくなってきた。 「この言葉って、社会の中でどう扱われるんだろう?」 そんな問いのほうが、頭の中で大きくなっていった。
「私って、感受性が強くて、生きづらい人なんですよ」と言うのは、とても個人的で、正直な告白のように見える。 たぶん、言っている本人にとっても、その瞬間はかなり切実だと思う。 でも同時に、それは社会に向けて一つのボールを投げる行為でもある。 その言葉は、共感を集めることもあれば、反発を呼ぶこともあるし、誰かの沈黙をほどくこともあれば、逆に別の誰かの痛みを見えにくくしてしまうこともある。社会に対して、理解や想像力やケアを、少し分けてほしいと要求する行為。 ただの独り言ではなく、関係性の中に投げ込まれる言葉だ。
そうなると、その言葉が「どの立場」から発せられるかは、どうしても無視できなくなる。 社会的に成功している人、美しさや発言力や資源を持っている人が「生きづらい」と語ると、その言葉は物語として消費されやすい。 共感されたり、称賛されたり、ときには軽く反発されたりしながら、わかりやすいストーリーに回収されていく。
一方で、同じような感受性やしんどさを抱えながら、外見や運や環境に恵まれず、ただ日常で消耗している人たちの生きづらさは、ほとんど表に出てこない。 インタビューされることもなく、言葉として拾われることもなく、「自己責任」や「個人の問題」として静かに処理されていく。
だから、自分の中には、こんな違和感が生まれる。 「もし本当に感受性が強いなら、こういう「語られない側」の存在にも、自然と想像が及ぶんじゃないか?」と。
感受性って、単に自分の感情に敏感であることじゃなくて、 自分の言葉が、どこまで届いて、誰を置き去りにしてしまうのか、そこまで含めて感じ取る力なんじゃないかと思う。 そこが抜けたまま「私は生きづらい」と語られてもむしろその人の感受性の欠如を感じるし、その言葉が戦略的な演出のようにも感じられてしまう。
そんなふうに考えながら、自分の中でモヤモヤとした違和感が転がっていた。
ただ同時に、私たちが目にしている情報は、ほとんどが「切り抜き」だという事実にも立ち戻る必要がある。 インタビューでも、会話でも、文章でも、本当はもっと前後に文脈があって、迷いや配慮や言い直しがあったはずなのに、表に出てくるのは、いちばん分かりやすく、いちばん刺激の強い部分だけだったりする。
「その人は本当はどういう気持ちで言ったんだろう?」 「どんな前置きがあったんだろう?」 そういう想像をすっ飛ばして、切り抜かれた一文だけで人を評価してしまうのは、やっぱり少し乱暴だなと思う。 自分も気をつけないと、すぐそっち側に流れてしまう。
自分は恵まれている立場だと分かっている、もっと大変な人がたくさんいるのも分かっている、それでも、周りから「幸せそうに見える人」も生きづらさを言葉にしていい空気が広がったらいいと思ってインタビューを受けた
もし、そんな前提や配慮があったのだとしたら、受け取り方はまったく変わってくる。 切り抜きだけでは、その部分はほとんど見えない。
それに、もしその人自身が、空気や他人の期待を過剰に感じ取ってしまうタイプだったとしたら、言葉が意図とは違う形で流通していくこと自体が、かなりのストレスになるはずだ。 「周りの大人のための振る舞い」しか許されない環境で、自分の言葉が別の意味に加工されていく感覚は、想像するだけでも消耗が大きい。
だから結局、この話は「誰が正しいか」「誰が鈍感か」という単純な話じゃないんだと思う。 個人の感受性の問題と、言葉が社会でどう流通してしまうかという構造の問題は、切り分けて考えたほうがいい。
それでも、「生きづらい」という言葉が社会でどう扱われるか、という問いそのものは残り続ける。 個人の生きづらさは、社会にとってはどうしても扱いにくい“臭いもの”だ。 曖昧で、答えがなくて、管理しづらくて、構造の責任が見えてしまうから、できるだけ早くフタをしたくなる。
ときには、記事やニュースが、そのフタを閉める装置みたいに機能することもある。 「生きづらさ」が一度きれいな物語に回収されることで、社会は「もう処理した」と安心できる。 もちろん、それで救われる人がまったくいないわけでもないけれど、その裏で、静かに置き去りにされる違和感もある。
それでも、もし誰かの「生きづらい」という言葉が、誤解されたり、雑に消費されたりしながらも、 「それなら、もっとしんどい私も、生きづらいって言っていいのかもしれない」 と感じる人を一人でも生むなら、その言葉は完全に無駄だったとも言い切れない気がする。
「生きづらい」と言うことは、ただの弱音じゃなくて、社会との交渉みたいなものなんだと思う。 勇気もいるし、リスクもあるし、思った通りには伝わらないことのほうが多い。 それでも、誰かが言葉にし続けることで、少しずつ空気が変わっていく可能性も、ゼロじゃない。
今日は、そんなことを、あれこれ考えながら一日が終わった。 自分の違和感も、フェアでありたい気持ちも、どちらも抱えたまま、いまはこのくらいの着地でいい気がしている。

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