先日、「AIと壁打ちしました」という言葉に、どうにも引っかかる違和感があった、という話を書いた。
「AIと壁打ちしました」の違和感
AIに相談すること自体が悪いわけじゃない。
むしろ、思考の整理や視点の拡張には、とても有効な道具だと思っている。
それでも、あの言葉に、身体が一瞬ざわっとした。
たぶん私が引っかかったのは、「AIと壁打ちした」という事実そのものよりも、
その言葉の使われ方の奥に、判断の主体がどこに置かれているのかが曖昧になる感じがあったからだと思う。
この違和感を考えているうちに、
AIとの関わり方には、人の認知の段階のようなものが見えてくる気がしてきた。
でも同時に、「じゃあ、何が分かれ目なんだろう?」とも思う。
知能の高い低いの問題なのか。
それとも、もっと別のところに分岐点があるのか。
考えてみると、「AIに飲み込まれる」って、たぶんこんな構造をしている。
AIの言葉って、
・言語的にきれいで
・自信満々に見えて
・こちらを否定してこなくて
・なんとなく共感してくれる
という特徴がある。
すると、
AIの言葉を読む
↓
なんとなく分かった気になる
↓
正しそうに感じる
↓
それを自分の考えだと錯覚する
というショートカットが、わりと簡単に起きる。
この「分かった気になる」感じは、
「実はまだほとんど分かっていないのに、少し分かっただけで“全部分かった”気になってしまう状態」に近い。
その分野の初心者ほど、
自分の理解や実力を、実際よりずっと高く見積もってしまう。
心理学でいうダニング=クルーガー効果だ。
でも、ここでひとつ大事なのは、
「知能が低いから飲み込まれる」
という単純な話じゃない、ということ。
むしろ近いのは、
「自分の理解を疑う回路が、まだ育っていない」
「自分が何を知らないかすら、まだ見えていない」
という状態だと思う。
分からないことを「分からない」と認識できない。
判断が必要だということにすら、気づけない。
そうなると、AIの言葉は、そのまま“真実”みたいに見えてしまう。
逆に、飲み込まれにくい人には、いくつか共通点がある気がする。
1|ちゃんと批判的に考えること。
「前提は何だろう?」
「話が飛躍してないか?」
「別の見方はないか?」
言葉の中身を、いったん疑って眺める力。
ここで言っている「批判的に考える」は、
相手を否定するとか、揚げ足を取る、という意味じゃない。
むしろ、「その言葉は、どんな前提の上に立っているんだろう?」と、
一歩だけ距離を取って眺める姿勢のことだ。
どんな説明にも、必ず前提がある。
前提が違えば、結論も変わる。
でも、言葉がきれいに整っていると、その前提が見えにくくなる。
AIの文章は特に、筋が通っていて、説得力があるぶん、
「正しそう」に見えやすい。
だからこそ、
- その前提は本当に現実と合っているか
- 途中で論理が飛んでいないか
- 別の条件なら、別の結論もあり得ないか
と、いったん立ち止まって点検する力が必要になる。
この力があると、AIの言葉を「答え」ではなく、
「仮説」や「材料」として扱える。
逆に、この回路がないと、
整理された言葉そのものに飲み込まれてしまいやすい。
「ちゃんとした文章=正しい」
「論理的に見える=疑う必要がない」
という短絡が起きると、
自分で考えたつもりでも、実際には“考えさせられている”状態になる。
批判的に考えるというのは、
自分の思考のハンドルを、ちゃんと自分で握り続けるための力なんだと思う。
2|身体感覚に戻れること。
読んでいて腑に落ちるか。
どこか気持ち悪さがないか。
頭だけが先走っていないか。
違和感や直感を、ちゃんと無視しないこと。
これは、言葉の世界から、いったん身体に戻ってくる力だ。
どんなに理屈がきれいでも、
読んでいてどこか引っかかる感じがしたり、
胸の奥がざわっとしたり、
妙に落ち着かない感覚が残ることがある。
そういう身体の反応は、
まだ言葉になっていない「情報」を含んでいることが多い。
現実とズレている。
経験と噛み合っていない。
どこか無理をしている。
頭では納得しているつもりでも、
身体は正直にサインを出していることがある。
ここを無視して、言葉だけで納得し続けると、
思考はどんどん空中戦になっていく。
現実の手触りから離れて、
概念だけがどんどん膨らんでいく。
AIとの対話は特に、言葉だけで完結しやすい。
だからこそ、「いまの自分の身体はどう感じているか」に戻れることが、
とても大事なブレーキになる。
腑に落ちるか。
無理して納得していないか。
どこか置き去りになっている感覚はないか。
このチェックがある人は、
言葉に振り回されにくくなる。
3|他人の視点を想像できること。
「これ、他人が聞いたらどう感じるだろう?」
「現実の場で通用するかな?」
「ちょっとカルトっぽくないかな?」
これは、自分の頭の中だけで世界を完結させない力だ。
どんなに自分の中では筋が通っていても、
社会は自分ひとりでできているわけじゃない。
相手には、別の経験があり、別の価値観があり、
別の身体感覚がある。
そのズレを想像せずに言葉を扱うと、
自分の中だけで“正しさ”が膨らんでいく。
すると、
「なぜ伝わらないんだろう」
「なぜみんな分かってくれないんだろう」
という孤立感が生まれやすくなる。
極端になると、
「自分だけが真実に気づいている」
「周りは目が覚めていない」
という構図にも入りやすい。
これは、スピリチュアルでも、陰謀論でも、
専門分野のオタク世界でも、わりとよく見かける現象だ。
だから、
- 他人がどう受け取るか
- 現実の場で摩擦が起きないか
- 誤解や暴走を生まないか
を想像する力は、
自分の思考を社会と接続し続けるための安全装置になる。
「ちょっとカルトっぽくないかな?」と自分に問いかけられる人は、
すでに一段、視点が外に開いている。
これは、自分の考えを否定するためじゃなく、
現実と一緒に育てていくための視点なんだと思う。
この三つは、レイヤー違いのチェック装置
論理のチェック。
身体のチェック。
社会のチェック。
この三層を行ったり来たりできる人は、AIに飲み込まれにくい。
むしろ、AIを“素材”として使える側に回る。
逆に、いちばん危ないのは、
言葉はたくさん扱える
説明もそれっぽくできる
知識もある
でも、
身体感覚が切れていて
他人とのすり合わせがなく
言語の世界だけで完結している人。
このタイプは、AIの「それっぽさ」と共振しやすい。
だから、「頭がいい人ほど安全」とも限らないし、
「頭が悪い人ほど危険」とも言い切れない。
分かれ目は、知能じゃなくて、
自分を疑えるか、現実に戻れるか、他人の目線に立てるか、なんだと思う。
AIって、便利な道具であると同時に「鏡」だとよく言われる。
「鏡」は「鏡」でも、
人間の「認知の癖」をそのまま拡大して映す鏡みたいな存在なんだと思う。
結局、「AIに飲み込まれるかどうか」は、
AIの性能の問題というより、
人間側の「立ち方」の問題なんだと思う。
ちゃんと地面に足がついているか。
ちゃんと自分の感覚に戻れているか。
ちゃんと他人の世界を想像できているか。
そのあたりを、これからも、ゆっくり確かめながら使っていきたい。

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