言葉と身体が、くっつきすぎるとき

ずっと引っかかっている感覚がある。

足の声が大きくなりすぎる、という話だけでは、
まだ何か足りない気がしている。

本当にややこしいのは、
「声が大きくなること」そのものよりも、
その声を、私たちがどう受け取ってしまうかのほうなんじゃないか。

そんなことを、今朝コーヒーを飲みながらぼんやり考えていた。

たぶん最近、私たちは、
自分の思考や言葉を、自分の身体と結びつけすぎている。

そして同時に、
他人の言葉や考えも、その人の身体や人格と、結びつけすぎている。

たとえば、

自分の意見を否定されると、
まるで自分そのものを否定されたように感じたり。

誰かの言葉が強く聞こえると、
その人自体が「危険な存在」に見えてきたり。

本当は、言葉は言葉で、
思考は思考で、
身体は身体で、
それぞれ別のレイヤーのはずなのに。

気づくと、それらが一塊になってしまう。

「この意見を言っている自分」=「この身体としての自分」
「この言葉を発したあの人」=「あの人の全人格」

みたいな、少し乱暴な結びつき方だ。

こうなると、会話は一気にしんどくなる。

意見の違いが、価値の違いになり、
価値の違いが、存在の衝突みたいに感じられてしまう。

これはもう、議論というより、身体同士のぶつかり合いに近い。

ここまでくると、ちょっと中島敦の「狐憑」っぽい。

誰かが悪意を持って殴っているわけじゃない。
でも、関係性が少しずつ歪んで、
気づいたら、対話の回路そのものが切れてしまう。

じゃあ、なぜこんな混線が起きやすくなっているんだろう。

たぶん一つには、AIの存在も関係している。

AIは、私たちの曖昧な感覚を、
とてもきれいな言葉や論理に変換してくれる。

それ自体は便利だし、悪いことじゃない。

でもその結果、
もともとは「なんとなくの違和感」だったものが、
「筋の通った主張」や「正しそうな言葉」になって、
自分の中で急に“重たいもの”に感じられることがある。

言葉の輪郭がくっきりすると、
それがまるで「自分そのもの」みたいに錯覚してしまう。

すると、言葉を守ることが、
自分の身体や尊厳を守ることと、無意識に重なっていく。

同じことが、相手に対しても起きる。

相手の言葉が強く、論理的で、揺るぎないほど、
その人自身が「硬くて、動かせない存在」に見えてくる。

本当は、言葉は道具で、
仮の形で、
あとから何度でも組み替えられるものなのに。

いつのまにか、言葉が人格を背負い、
人格が身体を背負い、
身体が攻撃対象みたいになってしまう。

ここまで来ると、もう話が噛み合わなくなる。

相手の意見を少し調整しようとしただけで、
相手の存在そのものを否定したように受け取られる。

自分の考えを少し疑ってみる余白も、なくなる。

たぶんこれが、
「足の声が大きくなった世界」で起きやすい、もう一つの副作用なんだと思う。

声が大きくなり、
言葉が強くなり、
その言葉と身体が、くっつきすぎる。

すると、社会の中で、
ちょっとした違いが、すぐに断絶に変わってしまう。

じゃあ、どうすればいいんだろう。

答えはまだ完全には見えていないけれど、
少なくとも一つ言えそうなのは、

「切り分ける力」そのものが、これからますます大事になるということだ。

思考は、仮説。
言葉は、道具。
身体は、基盤。
違和感は、警告。

そして、行動は、いったん全身のバランスを見てから決める。

全部を一緒くたにしない。
でも、切り捨てもしない。

この距離感を、身体感覚として取り戻せるかどうかが、
たぶん、これからの文明の歩き方に、かなり影響してくる気がしている。

……さて、ここまで考えて、
ようやく少しだけ、次の景色が見えてきた。

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