はじめに
移民という言葉を聞くと、
多くの場合、議論はすぐに「賛成か反対か」に分かれる。
労働力が足りないから必要だ、という意見。
文化や治安が変わってしまうから不安だ、という声。
人道的に受け入れるべきだ、という主張。
自国民の仕事が奪われる、という懸念。
けれど、そうした意見の応酬の中で、
少し置き去りにされている感覚がある。
それは、
移民は、そもそも何をこの社会に運び込んでいるのか
という問いだ。
言語や文化だけではない。
価値観や宗教だけでもない。
多くの場合、移民が運んでくるのは、
この社会が自分たちで引き受けきれなくなった
「きつさ」そのものだ。
介護、清掃、建設、農業、物流。
誰かがやらなければ、社会が回らない仕事。
けれど、できれば自分ではやりたくない仕事。
それらが、
「仕方ない」「誰かがやるもの」として、
長いあいだ背景に押しやられてきた。
移民は、その場所に立たされることが多い。
ここで重要なのは、
移民が特別に問題を持ち込んでいるわけではない、
という点だ。
むしろ移民は、
これまで、この社会において、沈黙の中で処理されてきた構造を、
沈黙のままでは処理できなくしてしまう存在
として現れている。
日本社会には、
衝突を避けるための高度な技術がある。
空気を読むこと。
場を壊さないこと。
「自分さえ我慢すれば…」遠慮すること。
「…まあいいか」と引き受けること。
その結果、
責任や負担や調整は、
より逃げ場のない人へ、静かに集まっていく。
誰も命令していない。
誰も強制していない。
それでも、
有能で、共感的で、断りにくい人ほど、
「自発的に」引き受ける側に回る。
この無言の競争を、
ここでは 免責バトル と呼びたい。
免責バトルとは、
誰が責任を引き受けずに済むかをめぐる、
静かな力学だ。
日本人同士であれば、
この免責バトルは表に出にくい。
沈黙と我慢が、摩擦を吸収してしまうからだ。
だが、そこに
沈黙を共有しない人が入ってくると、
構造は一気に可視化される。
「なぜ自分がやるのか」
「対価は釣り合っているのか」
「その判断は、誰がしたのか」
移民は、
日本社会を壊しに来ているのではない。
ただ、
壊れかけていた設計を、
隠せなくしているだけなのかもしれない。
この文章では、
移民を「問題」として扱うのではなく、
移民を通して浮かび上がる
免責バトルと圧の構造を見ていきたい。
そして、
「きつい仕事の身体への痛みは、誰のものなのか」
という問いを、
文明の設計として考えてみたいと思う。
第1章|免責バトルという、静かな競争
現代社会では、
誰かに怒鳴られたり、命令されたりする場面は、
以前よりずっと少なくなった。
上司が露骨に指示を出すことも減り、
法律や制度は「公平」や「合理性」を掲げ、
表向きには、誰もが自由に選択しているように見える。
それでも、
なぜか、
同じ人に、仕事が集まり、
同じ人が、調整役になり、
同じ人が、疲れていく。
これは偶然ではない。
ここで起きているのは、
「誰が引き受けずに済むか」をめぐる競争だ。
これを、免責バトルと呼びたい。
免責バトルとは、
露骨な命令や強制を使わずに、
責任・負担・リスクを、
より断りにくい人へと流していく力学のことだ。
このバトルには、
勝者と敗者がいる。
勝者は、
断っても失うものが少ない人だ。
立場が強い。
代替がきく。
声を上げても評価が下がらない。
あるいは、そもそも場にいなくていい人。
一方で、
敗者になるのは、
断ることで何かを失う人だ。
空気を読む人。
調整ができる人。
場を壊したくない人。
関係性を大切にする人。
皮肉なことに、
有能で、共感的で、全体を見られる人ほど、
免責バトルでは弱い立場に置かれやすい。
重要なのは、
このバトルが、ほとんど意識されないまま進行することだ。
誰かが
「あなたがやれ」と言っているわけではない。
「できる人がやったほうが早いよね」
「今回は仕方ないよね」
「みんな忙しいし」
こうした言葉は、
穏やかで常識的に聞こえる。
だがそれらは、
議論を止め、責任の所在をぼかし、
引き受けた人を固定化する機能を持っている。
断らなかった人は、
いつしか、
「自分で引き受けた」ことになる。
感謝は一時的で、
役割だけが残る。
やがて、
その人がいなくなると、
場は回らなくなる。
それでも、
誰も構造を見直そうとはしない。
なぜなら、
免責バトルは「自発性」を装っているからだ。
「頼んでいない」
「強制していない」
「好意でやってくれている」
こうして、
本来は構造の問題である負担が、
個人の性格や善意の問題にすり替えられる。
このすり替えが長く続くと、
無償の行為は、美徳ではなくなる。
それは、
断れない無償へと変わっていく。
断れる無償は、関係を温める。
断れない無償は、人を壊す。
免責バトルが成立している社会では、
後者が常態化する。
そしてこの構造は、
職場だけでなく、
家庭、地域、自治体、国家、
さらには国境を越えた関係にまで、
静かに広がっていく。
次の章では、
なぜ日本社会では、この免責バトルが
長いあいだ大きな衝突を生まずに回ってきたのか。
そして、
なぜ移民という存在が、
その構造を一気に可視化してしまうのかを見ていきたい。
第2章|なぜ日本社会では「揉めずに回ってきた」のか
免責バトルは、
どの社会にも多かれ少なかれ存在する。
それでも日本社会では、
この構造が長いあいだ、
大きな衝突や対立として表に出にくかった。
なぜだろうか。
理由の一つは、
日本社会が持ってきた
「摩擦を吸収する技術」の高さにあるのではないか。
空気を読むこと。
場の雰囲気を優先すること。
直接的な対立を避けること。
言葉にしないまま察し合うこと。
これらはしばしば、
「協調性」や「思いやり」や「フツー」などとして語られる。
実際、
この仕組みは一定の範囲では機能してきた。
衝突が起きにくい。
表立った争いが少ない。
集団としての安定が保たれる。
ただしその安定は、
誰かの沈黙の上に成り立っている。
免責バトルが表面化しないのは、
免責バトルが存在しないからではない。
沈黙と我慢が、
摩擦を吸収してしまうからだ。
日本社会では、
「言わないで引き受ける」ことが、
成熟した大人の責任ある行動とされ評価されやすい。
逆に、
「なぜ自分がやるのか」
「条件は妥当なのか」
と問いを立てる行為は、
場を乱すもの、幼稚な考えとして受け取られやすい。
その結果、
免責バトルの勝敗は、
言語化されないまま決まっていく。
声を上げない人。
断らない人。
関係を壊したくない人。
そうした人が、
「自然に」引き受ける側に回る。
ここで重要なのは、
この構造が悪意によって作られたものではない、
という点だ。
多くの場合、
誰かが意図的に押し付けているわけではない。
むしろ、
全員が少しずつ遠慮し、
全員が少しずつ責任を曖昧にした結果として、
負担が集まっていく。
この「少しずつ」の積み重ねが、
構造になる。
そして構造になった瞬間、
個々人の善意や配慮では、
もはや止められなくなる。
日本社会が
「揉めずに回ってきた」理由は、
対立を解決する力が高かったからではない。
対立を、
表に出さないまま内部で吸収する力が
非常に高かったからではないか。
だがこの力には、
限界がある。
吸収され続けた負荷は、
どこかに溜まる。
身体に。
心に。
あるいは、
立場の弱い人の生活に。
有能で、共感的で、
場を壊さない人ほど、
やさしい人ほど、
この負荷を多く引き受ける。
そして彼らは、
声を上げることなく、
静かに疲弊していく。
表面上は、
何も起きていないように見える。
だが内部では、
確実に消耗が進んでいる。
この「静かな消耗」は、
同質性の高い社会の中では、
長いあいだ見えにくかった。
だが、
その前提が崩れると、
構造は一気に露出する。
第3章|移民は「問題」を持ち込むのではなく、構造を映す
移民が増えると、
社会の中で問題が「急に」起きたかのように見える。
職場での摩擦。
文化や価値観の違い。
言葉が通じないことへの苛立ち。
ルールを守らないのでは、という不安。
こうした現象は、確かに起きている。
だが、それを
「移民が問題を持ち込んだからだ」
と理解してしまうと、
見誤ることになるのではなかろうか。
移民は、
ゼロの状態に問題を加えた存在ではない。
むしろ、
すでに「内側」にあった構造を、
はっきりと映し出してしまう存在
として現れている気がする。
日本社会では、
免責バトルと圧の構造が、
長いあいだ沈黙の中で処理されてきた。
空気を読み、
場を壊さず、
言葉にせず、
誰かが引き受ける。
この仕組みは、
同質性の高い集団の中では機能する。
沈黙を共有できるからだ。
だが移民は、
その沈黙を前提としていない。
多くの場合、
彼らは「きつい仕事」を担うために来ている。
それは、
社会に不可欠だが、
できれば自分では引き受けたくない仕事だ。
介護、清掃、建設、農業、物流。
身体への負荷が高く、
責任やリスクが伴う仕事。
日本人同士であれば、
これらの仕事に付随する
無言の我慢や曖昧な役割分担は、
暗黙の了解として処理される。
だが移民は、
その了解を共有していない。
「なぜ自分がそれをやるのか」
「その条件は妥当なのか」
「対価は釣り合っているのか」
こうした問いが、
そのまま態度として、言葉として、行動として、出てくる。
すると、
これまで沈黙の中で回っていた構造が、
一気に可視化される。
それは、
移民が声高に主張するからではない。
沈黙を前提とした設計が、
沈黙しない存在の前で、
機能しなかった、というだけのことだ。
ここで起きている対立は、
文化の衝突ではない。
沈黙で吸収してきた負担が、
言語化されてしまった結果だ。
移民は、
日本社会の「鏡」として、
免責バトルの構造を照らす。
その光は、
これまで見えなかったものを映し出す。
誰が決めているのか。
誰が引き受けているのか。
誰の身体が消耗しているのか。
そして、
これまで内部で処理されてきた圧は、
外部の身体にそのまま適用できない。
だから摩擦が起きる。
その摩擦を、
「異物反応」と呼ぶこともできる。
だがそれは、
社会が拒絶反応を起こしているのではない。
自分たちの内部構造が、
初めてはっきりと見えてしまった
という反応なのかもしれない。
移民がもたらしているのは、
新しい問題ではない。
見ないままでいられた問題を、
見ないままではいられなくする状況だ。
次の章では、
この可視化された構造に対して、
どんな選択肢がありうるのか。
無償の我慢に逃げず、
排除にも向かわず、
責任と対価をどう再接続するかを考えていきたい。
第4章|なぜ身体を使う仕事は安くなるのか
ここまで見てきた構造を整理すると、
「きつい仕事」が抱えている問題には、
少なくとも二つの層があることが分かる。
一つは、
仕事として存在しているが、著しく低賃金であること。
もう一つは、
そもそも仕事として扱われず、無償で押し付けられていることだ。
この二つは、似ているようで、別の問題だ。
介護、清掃、建設、農業、物流。
それぞれの現場は、明確に「仕事」であり、
賃金も支払われている。
だが、その賃金は、
身体への負荷、消耗、危険性、不可欠性と、
釣り合っているとは言いがたいのではないか。
ここで起きているのは、
経済的効率性を最優先する設計の中で、
身体のつらさや痛みが、
価値として正しく換算されていない
という問題だ。
速さ、安さ、最適化。
それらを基準にすると、
人の身体は「コスト」としてしか扱われない。
結果として、
社会を支えるために不可欠な仕事ほど、
低賃金になりやすいという、
逆転した構造が生まれる。
速さ、安さ、最適化。
それらを基準にすると、
人の身体は「コスト」としてしか扱われない。
結果として、
社会を支えるために不可欠な仕事ほど、
低賃金になりやすいという、
逆転した構造が生まれる。
反対に、
現代の経済システムにおいて
高賃金・高報酬とされている仕事には、
はっきりとした共通点がある。
それらの多くは、
身体を介さずに、
アルゴリズムや電力、計算資源を直接「富」に変換できる仕事だ。
身体的な痛みを伴わない。
疲労によって生産性が落ちない。
一度仕組みを作れば、
同じ判断や処理を、
何万回、何億回と複製できる。
つまり、
無限にスケールできる仕事である。
現代の高賃金は、
努力や才能の多寡というより、
どのエネルギー層を扱っているかによって
ほぼ決まっている。
たとえば、
企業のCEOや取締役、
投資ファンドのマネージャーのような立場は、
現場で身体を動かして価値を生むのではない。
彼らは、
資本や電力、労働力といった
膨大なリソースの流れの方向を決める。
一つの判断が、
数千人、数万人分の行動や時間を動かす。
この「レバレッジの大きさ」が、
報酬を押し上げる。
また、
戦略コンサルタントやM&Aアドバイザー、
企業法務の弁護士のような専門職は、
身体の代わりに
情報の非対称性を扱う。
複雑すぎて一般の人には見えない
制度や契約、リスクの構造を読み解き、
「どこで痛みを回避できるか」
「どこで利益を最大化できるか」
その地図を書く。
彼らが売っているのは労力ではなく、
痛みを引き受けないための知識だ。
さらに、
AIエンジニアやプラットフォームの設計者は、
現代の「神経系」にあたる
アルゴリズムそのものを作る。
一度設計された仕組みは、
身体を使わず、
休むことなく稼働し続ける。
人々の注意や行動を自動的に吸い上げ、
資本へと変換する。
この自動化と再現性の高さが、
極端な利益率を生む。
そして、
トップアーティストやインフルエンサー、
プロスポーツ選手のような存在は、
人々の意味や欲望、憧れを一点に集める。
彼らは、
多くの人の時間や注意を
一つの象徴に束ねるレンズになる。
身体を酷使する側面はあっても、
価値の源泉は
身体そのものではなく、象徴性にある。
こうして見ると、
現代の高賃金とは、
「どれだけ身体を使ったか」ではなく、
「どれだけ身体から離れた場所で
エネルギーを動かせるか」によって
決まっていることが分かる。
だからこそ、
身体を通さなければ成立しない仕事は、
構造的に不利になる。
それは能力や尊さの問題ではない。
どの層のエネルギーが、
価値としてカウントされているか
という、設計の問題だ。
これは、
経済の設計の問題だ。
第5章|無償という免責――仕事にならない仕事
一方で、
もう一つの問題は、
さらに見えにくい。
それは、
調整、気配り、フォロー、感情労働といった、
仕事未満として扱われる負担だ。
いわゆる「雑用」とか「幹事の仕事」とかいうやつだ。
これらは、
契約にも書かれず、
賃金も発生せず、
役割として定義されない。
「気づいた人がやる」
「できる人がやる」
「場を壊したくない人がやる」
こうした言葉の下で、
無償の負担は、
静かに押し付けられていく。
ここでは、
経済合理性の問題というより、
免責バトルの構造が強く働いている。
誰がやるかを決めないことで、
誰も責任を負わない。
結果として、
断りにくい人、
空気を読む人、
立場の弱い人が、
無言で引き受けることになる。
低賃金と無償。
この二つは、同じではない。
だが、
深いところでは、
同じ一点につながっている。
それは、
身体の痛みや消耗を、
価値として扱わない社会設計だ。
仕事として存在していても、
痛みは十分に価格に反映されない。
仕事としてすら認められなければ、
痛みは最初から数に入らない。
どちらの場合も、
身体は背景に追いやられる。
移民問題が可視化するのは、
とくに後者だ。
沈黙を前提とした免責バトルは、
文化として共有されていなければ成立しない。
移民は、
その沈黙を引き受けない。
「なぜ自分が無償でやるのか」
「それは仕事ではないのか」
「誰が決めたのか」
こうした問いが、
そのまま言葉として出てくる。
すると、
これまで見えなかった無償の負担が、
一気に浮かび上がる。
ここで必要なのは、
「もっと我慢しよう」という道徳ではない。
また、
「排除しよう」という反応でもない。
必要なのは、
低賃金と無償を切り分け、
それぞれに対して設計で応答することだ。
身体的につらい仕事は、
そのつらさが正しく評価されるように。
無償で押し付けられてきた負担は、
仕事として定義し、
責任と対価を結び直す。
それは、
社会が優しさを失うという話ではない。
誰かの善意に依存し続ける社会は、
必ずどこかで破綻する。
だからこそ、
無償に逃げない。
押し付けられてきた痛みを、
痛みとして扱い直す。
それが、
免責バトルを終わらせ、
移民とも共に生きるための、
最低限の前提なのだ。
結び|免責のない共存へ
移民を受け入れるか、受け入れないか。
その二択で議論を続けている限り、
本当の問題には辿り着けない。
ここまで見てきたように、
移民問題の核心は、
文化の違いでも、善悪の対立でもない。
それは、
きつい仕事の身体への痛みと、
その判断を行う場所との距離の問題だ。
この距離が広がりすぎた社会では、
必ずどこかで、
免責バトルが起きる。
誰かが決め、
誰かが引き受け、
誰かが疲弊する。
その「誰か」が、
これまでは沈黙の中に埋もれていただけで、
移民という存在によって、
はっきりと輪郭を持って現れただけなのかもしれない。
だから移民は、
社会の外から問題を持ち込む存在ではない。
むしろ、
この社会がすでに抱えていた歪みを、
映し出す鏡だ。
この鏡を前にして、
私たちは二つの方向へ進むことができる。
一つは、
見なかったことにする道だ。
摩擦を嫌い、
沈黙を強い、
無償の我慢を美徳として掲げ、
免責バトルを続ける。
もう一つは、
距離を見直す道だ。
誰の判断が、
誰の身体に影響しているのか。
そのとき、
責任と対価は、
ちゃんと同じ場所に戻っているか。
無償の善意に頼るのではなく、
排除によって解決した気になるのでもなく、
設計として引き受け直すという選択。
どんな仕事も仕事であり、
どんな痛みも、
誰かの身体に現れている。
それを、
「仕方ない」で終わらせない。
対価を与えることは、
冷たさではない。
責任を言語化することは、
分断ではない。
それは、
これ以上、
静かに壊れていく人を増やさないための、
最低限の誠実さだ。
移民と共に生きる社会とは、
誰かに我慢を押し付ける社会ではない。
免責の範囲を広げる社会でもない。
判断と身体、責任と対価が、
もう一度つながり直された社会だ。
そんな社会は、
決して、
一朝一夕に実現するものではないだろう。
小さく試し、
失敗し、
修正しながら進むしかない。
けれど、
その方向を選ぶかどうかは、
いま、
問われている。
移民問題は、
未来の話ではない。
すでに始まっている、
わたしたちの文明の設計を問い直す、
現在進行形の問いなのだ。