それでも残っていくものの話
紀伊國屋書店を歩いていて、
ふと思った。
ここにある本の、
いったい何冊が
ベストセラーになるのだろう、と。
たぶん、
殆どのニッチな分野の本は、
売り上げがほとんどないのだろう。
それでも、
棚は埋まっている。
売れない本は、無駄なのだろうか
ふと、人体のことを思った。
指先の、
ほんの一つの細胞。
それが一つ欠けたところで、
人はすぐには死なない。
でも、
その細胞が「無駄」かといえば、
そうではない。
本も、
たぶん同じだ。
読まれなかったとしても、
存在している。
誰かが、
考え、
書き、
編集し、
本という形にまでした。
その痕跡は、
文明の中に、
ちゃんと残っている。
AIの文章は、これから無限に生まれる
これからの時代、
文章がAIによって無限に生成される。
それっぽい文章。
正しそうな文章。
うまくまとまった文章。
それは、
もう珍しいものではなくなる。
だからこそ、
逆に浮かび上がってくるものがある。
それは、
人が、
生き、
書き残したものである、という事実
だ。
1990年頃の映像
今日、
1990年頃の街の様子撮った
古いホームビデオの動画をYouTubeで見た。
その動画には、
街の名所も、
これといった事件も、
象徴的なイベントも
記録されていない。
ただ、
- 行き交う人々
- 書店での立ち読み
- 個人商店の営み
- 何もない、地面や建築物
が映っているだけである。
しかし、コメント欄には、
「懐かしくて涙が出た」
「よくぞ残してくれた」
「この動画が残ったことは奇跡だ」
といった声が並んでいた。
それは、
編集された歴史ではなく、
意味づけされなかった日常の価値が可視化された瞬間だった。
本当に貴重なのは、公開されていないもの
この映像は、
すでにネットに上がった一つの奇跡ではある。
でも、
これからの時代、本当に貴重になるのは、
公開されていないような個人所有の映像なのだろうと思う。
- 個人家庭のVHS
- 誕生日の食卓
- 無言の時間
- カメラを意識していない仕草
検索しても出てこない。
言語化もされていない。
AIがどれだけ学習しても、
そこには触れられない。
それは、
人間が、
ただ、
そこに、
生きていたという痕跡
だ。
書物も、それと同じ。
映像だけの話ではない。
神社や仏閣の秘伝の書。
個人の蔵に眠る書物。
単なる日記や、
走り書きのメモ。
そして、
売ることを目的とせず出版されたような本。
それらはすべて、
- 読者を想定していない
- 正解を示していない
- 完成していない
思考が酸化する前の状態だ。
AI時代になるほど、
洗練された文章は簡単に手に入る。
だからこそ、
不器用で、
途中で、
意味が揺れているもの
が、
人類の文化的資産として
価値を持ち始めるだろう。
「クラウド」という感覚
はっきりとは言語化されないもの。
日常の立ち居振る舞い。
所作の一つ一つ。
表情。
ファッション。
街に立ち込める空気感。
そういったものが、
インターネットのどこかに保存されているクラウドデータのように、
人々の記憶、そして身体そのものに、
大量に蓄積されている気がした。
AIは、言語化された知識はすべて、あっという間に学習できるのだろう。
でも、
この「人類のクラウド」には、触れられない。
世界を支えているもの
売れない本は、
たぶん、世界を大きくは変えないだろう。
でも、
確かに残している。
人が、
そこで生きて、
考え、
迷っていたという事実を。
書店を出たあと、
そう思った。
AIがどれだけ文章を上手に生成できるようになっても、
人間自身が、
その身体を通し、
その瞬間を生きた、という事実だけは、
何万年先になろうと、決して生成できない。
人間が執筆し、出版した本というものは、
未来に向けた
静かな錨(いかり)なのだと思う。

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