まだ、読んでいない本に、深く触れてしまった日

──本屋という重力場

今日は、紀伊國屋書店に行った。

特別な目的があったわけではない。
新刊を探すでも、答えを求めるでもなく、
ただからだが、自然にその方向へ向かった。

本屋に入ると、いつも少し圧倒される。
これほどまでに言葉がある。
これほどまでに、人が「生きようとした痕跡」が積み重なっている。

静かなはずの空間なのに、
無数の声が、同時に、低く鳴っている。


棚を歩きながら、ふと気づいたことがあった。

心理学」と、「精神世界」の本が、隣り合って置かれている。

偶然ではない。
配置として、はっきりそうなっている。

その光景を見た瞬間、
たっくんの中に、前から思っていたことが、
静かに浮かび上がった。

文明の進歩にともなって新しく生まれた不安や生きづらさは、
心理学として言語化される前に、
まずスピリチュアルが拾う。

理論ではなく、
本棚そのものが、そう語っているようだった。


今の時代は、アドラーが多い。

本当に、アドラー、アドラー、アドラー。
そして、その多くがハウツーと結びついている。

ぱらぱらと立ち読みしてみると、
「前向き」「主体性」「課題の分離」
そういった言葉が、明るく、力強く並んでいる。

たぶん、
「前向きで元気がある人向け」の言葉なんだと思う。

考えを整理できる人。
自分の輪郭を、ある程度保てている人。

今まさに、
思考が頭をグルグル反芻し続けて、
身体の感覚が追いつかなくなっている人には、
少し遠い光にも感じられた。


そんな中で、
不意に、一冊の本が目に留まった。

石井健介さんの
『見えない世界で見えてきたこと』

手に取ると、帯には、にじんだようなぼやけたような特殊な文字で

「目が 覚めたら そこは 新世界 だった。」

と書かれている。

「視力を失った僕は今
青く澄んだ闇の中に生きている」
と。

正直に言うと、
まだ、この日記を書いている時点で、私はこの本を読んでいない。

本文は、開いていない。
立ち読みしたのは、後ろの方にある写真のページだけだ。

だから、私が受け取っているのは、
内容の理解ではない。

この本が放っている、重さと、静けさだ。


 ユメはカラーでみます。

朝、目をあけるのが少しこわい

です。

でもよくみるユメは

目がみえるようになるユメ

朝と夜は、心のバランスを

とるためによく泣きます

でもふだんはいつも通り

元気です。

  ありがとうございます

その手書きの文字を見た瞬間、
喉の奥が、きゅっと締まった。

これは、
勇気を語る本じゃない。

何かを克服した話でも、
前向きな結論でもない。

ただ、
意識が、毎朝、身体に立ち上がってしまうことの、どうしようもなさ
それが、そこにあった。


不思議な感覚だった。

この本を、
「欲しい」と思ったわけじゃない。

「勉強になる」と思ったわけでもない。

ただ、
ありがとう、と言いたくなった。

この世界を、
身体で生きていることを、
言葉として残してくれて、ありがとう。

そういう気持ちで、
レジに向かっていた。


まだ、この本を読んでいないのに、

それでも、
確かに、何かを受け取っている。

「読む前の想像」
「帯の言葉」
「写真に添えられた手書きの文字」

その周縁だけで、
もう十分だった。

むしろ、
読まないまま触れる
という体験そのものが、
今日は必要だったのかもしれない。


本屋を出るとき、
少しだけ、
呼吸が深くなっていた。

答えは、何も手に入れていない。
世界も、何も変わっていない。

ただ、
考えが、少し静まった。

それで十分だった。

でも、 「考えが静まる」とは、何なんだろう。

こういう余韻は、どこから来るのだろう。

その問いの答えは、 この本を読み進める中で、 ゆっくり確かめていきたい。

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