思考だけでは生きられない理由

人は、
考える存在だと言われる。

理性。
判断。
計画。
内省。

たしかに、
思考は人間の大きな力だ。


けれど、
ここで一つはっきり言える。

人は、思考だけでは生きられない。


なぜなら、
思考は
「遅れてくる」層だからだ。


何かが起きる。
身体が反応する。
感情が動く。
リズムが変わる。

そのあとで、
ようやく思考が
言葉を与える。


思考は、
現実を生み出しているのではない。

すでに起きたことを
整理しているだけ

だ。


にもかかわらず、
現代人は
思考に過剰な役割を与えている。


・思考が現実化する
・考えれば解決できる
・理解すれば楽になる
・意味が分かれば前に進める


だが実際には、
思考が強くなりすぎると
逆のことが起きる。


考えるほど、
身体の声が聞こえなくなる。

理解するほど、
行動が止まる。

意味づけするほど、
現実感が薄れる。


思考は、
世界から少し距離を取るための
装置だ。

それ自体は悪くない。


問題は、
距離を取り続けることだ。


距離を取りすぎると、
世界は抽象になる。

抽象になった世界では、
痛みも、快も、重さも
感じにくくなる。


すると人は、
こう思い始める。

「何をしても同じだ」


これは冷静さではない。

切断だ。


思考だけで生きようとすると、
人は「理由」を探し続ける。

なぜやるのか。
なぜ生きるのか。
なぜ意味があるのか。


だが、
身体は理由を必要としない。


空腹だから食べる。
疲れたから休む。
寒いから近づく。


ここに、
迷いはない。


思考が疲れるのは、
「理由が尽きたとき」だ。

身体が疲れるのは、
「エネルギーが尽きたとき」だ。


この二つは、
まったく別の問題だ。


多くの人が
思考の疲れを
意味の問題だと誤解している。

だが実際には、

身体が置き去りにされている

ことが多い。


思考だけでは、
眠れない。

思考だけでは、
安心できない。

思考だけでは、
生きている実感が戻らない。


だから、
どれだけ賢くても、
どれだけ理解していても、

身体がなければ
人は壊れる。


思考は、
道具だ。

身体は、
基盤だ。


基盤のない道具は、
空回りする。


生きるとは、
考えることではない。

考えながら、
感じながら、
触れながら、
ここにいること

だ。

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