意味が消える瞬間がある。
それは、
何かを失ったときだけではない。
むしろ、
すべてを「理解してしまった」と
感じたあと
に、静かに訪れる。
世界は動いている。
人も生きている。
自分も呼吸している。
なのに、
そのどれにも
「理由」が貼りつかない。
この状態は、
多くの人が恐れる。
虚無。
空白。
無意味。
だが、
ここで一つだけ
はっきりさせておきたい。
意味が消えたこと自体は、
不幸ではない。
不幸になるのは、
意味が消えたあとに
意味がなければ生きられない
という「前提」を
まだ握っているときだ。
意味は、
生きるための燃料ではない。
意味は、
後から貼られたラベルだ。
赤ん坊は、
意味を知らない。
それでも泣き、
笑い、
眠り、
生きている。
意味が消えたあと、
最初に戻るのは
この地点だ。
・空腹
・疲労
・安心
・不安
・ぬくもり
・リズム
生きるとは、
まずこれらが
立ち上がることだ。
意味が消えた世界では、
大きな物語は使えない。
だがその代わり、
小さな現実が
輪郭を取り戻す。
・今日は少し寒い
・この椅子は硬い
・この人の声は落ち着く
・今は歩きたい
これらは、
説明を必要としない。
意味が消えたあとに
生きるというのは、
「理由なく動く」
ことを
許すこと
だ。
多くの人は、
理由がない行動を
「怠惰」や「逃げ」だと
誤解している。
だがそれは違う。
理由がない行動は、
もっとも現実的だ。
意味がないからこそ、
嘘がつけない。
評価がないからこそ、
比較がない。
ここで初めて、
人は
自分の身体に
返ってくる
意味は、
いつでも戻ってこられる。
必要になったら、
また使えばいい。
だが、
意味を一度
完全に手放した人だけが、
意味を
道具として扱える
意味に
支配されない。
意味を
振り回さない。
意味が消えたあとに
残るもの。
それは、
生きているという事実だ。
息をしている。
感じている。
ここにいる。
それで、
十分だ。