人は粒でしかないのか

人は、
一人ひとりが特別だと言われる。

同時に、
社会の中では
「代替可能な存在」だとも言われる。

この二つは、
矛盾しているようで、
どちらも事実だ。


大きな構造の中で見ると、
人は確かに「歯車」、いや、もはやたった一つの「粒」に近い。

制度の中の一要素。
市場の中の一単位。
統計の中の一データ。

一人抜けても、
全体は回る。

誰かが辞めても、
役割は補充される。

この視点に立つと、
人はとても軽い。


だから多くの人は、
「粒でしかない」という感覚を
拒絶したくなる。

意味がなくなる。
価値がなくなる。
替えがきく存在になる。

それは怖い。


でも、
「粒であること」は、
必ずしも否定的な意味だけを持たない。

砂鉄の粒は、
一つひとつは小さい。

だが、
磁力線の中で並ぶと、
はっきりとした形を作る。

その形は、
一つの粒だけでは生まれない。


人も同じだ。

一人では変えられることはわずかだが、
配置によって、その影響力は変わる。

同じ言葉でも、
誰がどこで発するかで、
重さが変わる。

粒は、
配置によって意味を持つ


ここで重要なのは、
粒であることと、
無力であることを
混同しないことだ。

粒は小さいが、
力場には必ず反応する

そして、
反応の仕方は同じではない。

同じ環境でも、
引き寄せられる方向が違う。
留まる場所が違う。


人は粒でしかないのか。

答えは、
半分だけ「はい」だ。

人は、
構造の中では粒だ。

だが同時に、
その粒は、
構造を感じ、
歪みを知覚し、
振る舞いを選べる。


粒であることを認めると、
少しだけ楽になる。

世界を全部背負わなくていい。
自分一人で救おうとしなくていい。

それでも、
自分の位置から
何を選ぶかは残る。


粒であるという自覚は、
諦めではない。

過剰な責任感から
降りるための視点
だ。

世界は重い。
構造は巨大だ。

だからこそ、
粒は粒として、
無理のない振る舞いを選んでいい。


人は粒でしかない。

そして、
粒であるからこそ、
世界は固定されない。

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