支配者は実在するのか

「支配者はいるのか」

この問いは、
どこかで必ず現れる。

社会が苦しいとき、
不公平が続くとき、
説明のつかない閉塞感に包まれたとき。

誰かが操っているのではないか。
裏で糸を引いている存在がいるのではないか。

この問いは、
幼稚だから生まれるのではない。

構造を感じ取ってしまった感覚から、
自然に立ち上がる。


支配者という言葉には、
人格の匂いがある。

意図を持ち、
計画を立て、
人を操る存在。

だが、
現実の多くの場面では、
支配はそんな形をしていない。

むしろ、
誰も全体を把握していないまま、
全体が一定方向へ動いている

この状態こそが、
人を不安にさせる。


支配者が実在すると考えると、
世界は少し理解しやすくなる。

原因が特定できる。
怒りの向け先ができる。
物語が一本にまとまる。

だが、
それは安心のための仮説でもある。

実際には、
多くの「支配」は
人格ではなく、配置によって起きている。


制度がある。
ルールがある。
インセンティブがある。

それらが重なり合うと、
人は特定の行動を取りやすくなる。

誰かに命じられなくても、
自分からそう動いてしまう。

結果として、
ある集団や個人が
「支配しているように見える位置」に立つ。

だがその人もまた、
同じ力場の中に置かれた粒にすぎない。


もちろん、
権力を持つ人は存在する。

影響力の大きな位置に立つ人もいる。

だがそれは、
「世界を自由に操っている」こととは違う。

多くの場合、
その人自身も
期待と恐怖と役割に縛られている

支配者に見える人ほど、
自由度は低いことすらある。


支配者が実在するか、という問いは、
少しずらすと、
別の問いに変わる。

「どんな構造が、
支配者のように振る舞っているのか」

この問いに変えた瞬間、
陰謀論は、
構造論に変わる。

敵探しではなく、
配置の理解になる。


ここで重要なのは、
構造を理解しても、
世界を思い通りにできるわけではない
ということだ。

構造は、
巨大で、鈍重で、
一人では動かせない。

だが、
巻き込まれ方を変えることはできる。

距離を取る。
重心をずらす。
別の層に足を置く。

それだけで、
支配の感触は変わる。


支配者は、
いるかもしれない。

いないかもしれない。

だが確かなのは、
世界は、誰か一人の意図だけで
動いてはいない
ということだ。

その複雑さを引き受けたとき、
恐怖は少しだけ、
現実的な大きさに戻る。


支配者を探すより、
構造を見る。

それは、
無力になることではない。

誤った敵を作らないための、
静かな抵抗
だ。

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