正しいプロジェクトが人を壊すとき

世の中には、
明らかに「正しい」プロジェクトがある。

社会的に意義がある。
倫理的にも問題がない。
多くの人を助ける。
数字も出ている。

それでも、
その中で壊れていく人がいる。

この矛盾は、
あまり語られない。


プロジェクトが正しいかどうかと、
そこで人が生きられるかどうかは、
別の問題だ。

正しさは、
目的に向かって一直線に伸びる。

効率。
成果。
再現性。
スケール。

一方で人は、
一直線では動かない。

揺れる。
遅れる。
迷う。
立ち止まる。

このズレは、
設計段階では「誤差」として扱われる。


正しいプロジェクトは、
しばしば「我々は、十分に説明を尽くしている」と考える。

理念は共有されている。
目的も理解されている。
意味も語られている。

だから、
従えない側に問題があると見なされる。

だが実際には、
理解と「同意」は別物だ。

頭で分かっていても、
身体が拒否していることはある。


人が壊れるのは、
能力が足りないからではない。

多くの場合、
違和感を感じる余地が失われたときだ。

「正しいのだから我慢しろ」
「意味があるのだから耐えろ」
「今は個人の話ではない」

こうして、
内部の反応が
徐々に無視されていく。


正しさが強くなるほど、
反論は難しくなる。

異議を唱えると、
わがままに見える。
足を引っ張る人に見える。
理解が足りない人に見える。

その結果、
人は沈黙する。

沈黙は一見、
秩序に見える。

だが内側では、
緊張が溜まり、
反射が減衰しなくなる。


正しいプロジェクトが人を壊すとき、
それは失敗として記録されない。

数字は出ている。
成果もある。
外から見れば、成功だ。

壊れた人は、
静かに去るか、
壊れたまま残る。

その損失は、
帳簿には載らない。


重要なのは、
正しさを疑うことではない。

正しさが、人間を置き去りにしていないか
を問い続けることだ。

問いを止めた瞬間、
プロジェクトは
人の上に乗り始める。


良いプロジェクトとは、
人を押し動かすものではない。

人が立ち止まれる余地を残す。
遅れを許容する。
離脱を裏切りと呼ばない。

それは非効率に見える。

だが、
壊れないための余白は、
最初から設計に含まれていなければならない。


正しさは、
人を導くこともできる。

同時に、
人を踏み潰すこともできる。

その分かれ目は、
理念の高さではない。

一人分の身体が、
そこに残されているかどうか
だ。

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