指示そのものが、
悪いわけではない。
人は、
何かを一緒に成し遂げるとき、
方向や役割を共有する必要がある。
問題は、
どこからが「助け」ではなくなるのかだ。
指示が機能するとき、
そこには前提がある。
- 合意がある
- 拒否できる余地がある
- 修正や対話が可能である
このとき指示は、
他者の行動を縛るものではなく、
行動の選択肢を減らすための補助線になる。
迷いを減らす。
衝突を減らす。
無駄を減らす。
その役割を、
静かに果たす。
では、
いつ指示は暴力になるのか。
それは、
拒否や再解釈が許されなくなった瞬間だ。
- 「みんなやっている」
- 「正しいことだから」
- 「今はそういう話じゃない」
- 「空気を読んで」
これらの言葉が添えられたとき、
指示は選択肢を示すものではなく、
逃げ道を塞ぐものに変わる。
暴力は、
殴ることだけではない。
相手の身体を動かす前に、
「判断の余地を奪うこと」も暴力だ。
しかもこの種の暴力は、
善意の顔をしている。
正しさ。
効率。
成長。
成功。
それらは、
疑うことが難しい。
指示が暴力になるとき、
それは大抵、
「急いでいる」。
時間がない。
余裕がない。
失敗できない。
そう言いながら、
相手の内部で起こる反応には、
一切の猶予を与えない。
従うか、
排除されるか。
選択肢が二つに減ったとき、
自由意思は、
形式だけ残る。
ここで重要なのは、
指示する側に悪意がなくても、
暴力は成立するということだ。
本人は、
善いことをしているつもりかもしれない。
むしろ、
使命感を持っていることすらある。
それでも、
相手の内側で起きている
違和感や抵抗を無視した瞬間、
指示は踏み込む。
自由意思とは、
「好き勝手にすること」ではない。
選ばないという選択が、
残されている状態だ。
説明を求められる自由。
保留する自由。
やらない自由。
それらが消えたとき、
どんなに整った言葉でも、
それは暴力になる。
指示を出す側も、
常に安全ではない。
自分の言葉が、
誰かの選択肢を
どれだけ削っているかは、
実感しにくい。
だからこそ、
問い続ける必要がある。
「これは助けか」
「それとも急かしていないか」
指示は、
道を照らすこともできる。
同時に、
道を塞ぐこともできる。
その境界線は、
言葉の強さではなく、
余白の有無で決まる。
余白が残っている限り、
指示はまだ、
暴力ではない。